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95 朝廷から負担命令

 十月三日 朝廷から関東連絡役の西園寺公経に書が届いた。西国の将軍御領に臨時の公事を申しつけるとの内容であった。これを伝え聞いて、広元は「一切、受けて実行することは必要ありません」と言ったが、実朝は実行を命じた。実朝は言う。「全く公事申しつけを受け入れない事は良くない。突然には雑掌ざつしょう(出納の者)らが負担できないので、前もっておおよそを示して命じられるよう、書いて送るべきだ」と。そこで広元は書を書き整えた。


 十月十四日 晴 昨晩雷鳴があった後、御所の南庭で狐の鳴き声が何度も聞こえた。実朝は昨晩の怪異の事で広元に手配するよう命じた。鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺の僧ならびに陰陽道の者は祈祷を命じられた。


 十一月十日 快晴 夜に入り、先代の将軍源頼家の若君善哉ぜんざいが出家し僧となった。尼御台所(政子)が若君の将来に良かれと思って勧めた事なのだ。


 十一月二十三日 晴 藤原定家が家に伝わる万葉集を実朝に献じる。在京している二条雅経に実朝が入手するよう命を出していたのが実現したのである。

 今日、その万葉集が鎌倉に到着したので、広元から実朝に手渡された。実朝は全巻四千五百首に目を通していなかったので、これにすぐる宝はないと言って、和田の乱以来、久々の笑顔を見せた。


 十二月六日 改元、建保元年となる。


 十二月十八日 京都において藤原定家のまとめにより、定家自筆の巻頭文と弟子の書写による、実朝随一の和歌集「金塊和歌集きんかいわかしゅうが完成したということだが、定家による日付がこの日であることが、ただひとつの根拠である。当初は「鎌倉右大臣和歌集」と呼ばれていたことや、この日完成というと、この後の歌がなくなり、あたかも、実朝がこの日に歌をやめてしまったよう思えてしまうなどのことから、この日の完成はあやしい。吾妻鏡には完成の記事は見られない。


 十二月十九日 雪降る 実朝は雪山の趣を見るために二階堂行光の邸宅に行った。ついでと言うことで行光は酒肴を用意する。二階堂行村など多数がついて来る。歌会、管弦などもある遊宴となった。


 建保二年(1214年)実朝 二十三才


 一月一日 御所に有力御家人が参上する。三浦義村は当然ながら一番目の列で実朝、政子、義時に対座している。かなり満座になった所に千葉胤綱たねつな(指折りの御家人、千葉氏の嫡男。四年後に千葉氏当主となる。この年十七才)がやって来て、義村のさらに上席に座ろうとした。義村は怒って「下総犬しもふさけんは伏すところも知らぬな」と言った。胤綱は色をなして「三浦犬は友を食うというぞ」と、言葉を返したという。和田合戦では本家の三浦義村は土壇場で分家和田氏との約束を裏切って北条側に走った。(これは、鎌倉幕府の正史と言える、吾妻鏡に書かれていることである。この痛快な話を、正史に載せているというのは、随分ユーモラスだと筆者は思うのだが、どうだろう)

 胤綱は後年、承久の乱で北条泰時とともに鎌倉の先陣として朝廷との戦いに重要な役割をはたすことになる。この逸話には、彼の肝の据わった性格がにじみ出していると思う。


 


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