92 和田の乱の後
北条義時は金窪行親と安東忠家に死骸を検めさせた。仮屋を由比ヶ浜の波打ち際に作り、義盛以下の首を納めた。
義盛を誅殺したと言っても謀反の党はちりぢりになり、未だにその様子が分からない。畿内、京には義盛の親戚も多い、すみやかに捜査を行わなければ、後の乱れを絶つのは難しい。次の書は、各御家人に出した書の一例である。
和田義盛、土屋義清、横山らは全て相模のもの、謀反を起こすと言っても、御所(実朝)には格別な事はなかった。しかしながら、謀反の者には親類が多い上、戦いのあと、ちりぢりになって消えた。海から西海へも落ちていったであろう。藤原有範と佐々木広嗣はおのおの、そなた様の御家人などに、この文の内容を周知させて、用意を調え討ち取って、参上せよ。
五月三日 酉の刻(午後六時頃) 大膳太夫(広元)
相模の守{義時)
佐々木広嗣 殿
実朝将軍 花押(印)
五月四日 小雨が降っている。古郡兄弟{保忠・経忠)は甲斐の国で自殺し、和田常盛(四十二才)と横山時兼{六十一才)は甲斐の国で自殺した。その両人の首が今日、鎌倉に届いた。
江の島に対岸の片瀬川の川辺に晒された首は二百三十四と言う。辰の刻(午前八時頃)実朝将軍は法華堂から尼御台所(政子)の邸に移った。
そのあと、戦で荒れた御所の西御門のあたりに幕を引いて、二日間の戦で負傷した兵士を集めて検分が行われた。二階堂行村が奉行して(取り仕切り)金窪行親と安東忠家が補佐した。負傷した者は百八十八人だという。北条朝時は庭を通って参上したが、歩けないので北条泰時が助けた。朝時の傷は二日に和田義秀と闘って負った傷である。
今度の事で誰が功労者であるか、先陣を誰が切ったか、波多野忠綱と三浦義村が、激しく言い合った。
実朝は義時の差配するこの席の横にいて、武士の世界のあさましさを身にしみて感じたが無言であった。