91 和田の乱
和田義秀は追いかけて足利義氏の鎧の袖を取った。義氏は袖を取られたまま、馬に鞭を打って走らせた。袖は切れてしまったが、馬も倒れず、乗り手も落とされなかった。さすがの義秀も、息が切れたようで、そこに留まった。気を取り直して、再び義氏を追いかけようとしたとき、藤原朝季(義氏の姻戚、従者)がその間に入り行く手を阻んだが、たちまち義秀の手にかかって殺害されてしまった。しかし、これによって義氏は逃れる事ができた。
また武田信光(武田信玄の祖)は若宮大路で義秀に出くわした。たがいに目をあわせていざ闘わんと言うときに、信光の息子の信忠が割って入った。これを期に義秀はそこを通りすぎた。
やがて日暮れとなったが、戦いはまだ続いていた。明け方となって和田義盛はようやく力つき屋もなくなって、若宮大路を直に抜けた所に広がる由比ヶ浜に馬を走らせた。
五月三日 小雨 戦闘に疲れた和田勢であったが、しばらくの由比ヶ浜での休息は志気を盛り返すのには十分だった。勢力は、いまだ三千名を数えた。
武士という者は、このような勝敗が不明な天下分け目の時は、良い意味での「風見鳥」であった。頼朝旗揚げの時もそうであったし、ずっと後世の「関ヶ原の戦い」の時もそうであった。どちら側につくかで一族の運命がわかれる。当然、情勢を見ることはきわめて敏であった。この和田の乱の時も、「風見鶏」の見物御家人は少なくなかった。辰の刻(午前八時頃)には京に繋がる稲村ヶ崎のあたりと関東に繋がる北方の武蔵大路あたりには事の成り行きを見守っている曽我、中村、二宮、河村の兵達が非常に多数群がっていた。
そのような情勢だったので、義時と広元が連署(共同署名)した上に、実朝将軍の花押(美麗な印)が押されている次の書を御家人各位に下した。それはいかのようなひらがな書きの文書であった。
きんへのものに、このよしをふれて、よびあつめなさい。わだのさえもん、つちやのひょうえ、よこやまのものどもは、むほんをおこして、きみをなきものにしようといっても、きみにとくべつなことはなかった。てきのちりぢりになっているのを、いそいでうちとって、やってきなさい 五月三日 巳の刻(午前十時頃)
大膳太夫(広元) 相模守(義時)
何々(御家人の名前) 殿 実朝将軍花押印
幕府は、この文書を発送するとともに、大軍を由比ヶ浜に向けて発進し、闘った。
和田軍は再び御所を襲おうとするが、若宮大路は北条の主力が占拠し、他の道は御家人の主力が陣を張って守っていた。それで戦闘は若宮大路の由比ヶ浜よりで繰り広げられた。
酉の刻(午後六時ごろ)ついに義盛が頼りとする息子の和田四郎義直(三十七才)が討ち取られてしまった。和田義盛、時に六十七才は「長年慈しみ義直の出世を願ってきた。もはや、合戦はむなしい」と声を上げて泣き悲しみ、敵陣に捨て身で襲いかかって迷走し、広元の郎党に討ち取られてしまった。