90 和田の乱
義盛は百五十の軍勢を三つに分けた。幕府の正門である南御門に五十、小町上の義時の邸宅の西門と北門に各五十である。
義時は御所に行っていたが、留守を守っている武兵たちは門の板を切って、その隙間から矢を射かけて交戦した。しかしほとんどが討ち取られてしまった。
中原広元邸には、まだ酒宴の客が残っていた。その客が帰りきらないときに軍勢が押し寄せてきた。どこのものだか解らないが、矢を射て抗戦した。義盛邸を滅ぼした100名の軍勢の主力は御所に向かった。その軍勢は御所南御門に近い南西の角に現れ御家人と対峙し、もつれあうような戦闘をくり返した。
その末に日が沈む頃、和田軍はついに御所の四面を囲ってしまった。北条泰時、朝時、上総義氏が防戦に活躍するが、強兵で聞こえた、和田三郎義秀が南御門から南庭に軍馬の音もけたたましく乱入し、立てこもる後家人を襲撃した。和田勢は火の付いた矢を御所の屋根にさかんに飛ばしたから、御所内の館はゴウゴウと音を立てて燃え上がった。すでに南庭あたりが修羅場となったので、実朝将軍を始め義時、広元は御所の北側の頼朝公の墓所である法華堂に避難した。
和田勢は義秀を先頭に猛攻撃を繰り返し、御所側の五十嵐小豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮乗が次々に殺害された。高井重盛は義盛の弟の和田義茂の子であるが、和田義秀と闘った。
互いに弓を捨て、馬を並べて、つかみ合いとなり供に落馬して組み討ちとなった。もみ合っている内に遂に重盛は討ち取られてしまった。しかし重盛は屈強な義秀を落馬させる事ができただけでなく、和田の一族でありながら、一人御所側として戦い落命したから御家人は立派なものだと感嘆した。
義秀が重盛を討ち取って、馬に戻らぬ前に北条朝時が大刀をもって挑んだ。双方互角の腕ながら、朝時は傷つけられてしまった。朝時が守られながら去ったあと、馬に戻った義秀はやはり馬に乗った足利義氏(この時二十代始め。室町幕府初代将軍足利尊氏の祖、母は北条時政の娘、時子。役職には就かなかったが姻戚として北条義時、泰時を良く補佐した。終世幕府で重きをなした)と橋の上で出会った。