88 黒雲
四月十六日 朝盛が出家京都に向けて出発した事を朝盛の郎党が、本邸に走り帰り、朝盛の父や祖父に告げた。驚いて朝盛の寝室を探すと一通の書状が置かれてあった。それには「反逆があると言う事での今度の出来事はきっとこのままではすみません。しかしながら私には一族に従って主君に向かって弓を引くことはできかねます。また主君の下に参じて、父祖に敵対することもできません。この苦しみから逃れるためにはただ出家しかありません」と書いてあった。
祖父の義盛は大変怒り「すでに髪を切り僧の身なりであったとしても、追いかけて捕らえ連れて帰るように」と和田四郎義直に指示した。従って四郎義直と郎党の一団は街道に蹄を轟かせ、京に向け走り去った。
四月十七日 戦乱ありとの不穏な空気を感じて、平安を祈って、実朝は御所において八万四千基の卒塔婆を供養する。卒塔婆は釈迦の墓である五重塔(仏舎利)を模したものである。卒塔婆は祈願に御利益があるという。単なる木片とはいえ、それが八万四千本である。実朝の平穏への願いは切実な事であることを示している。
実朝は朝盛が出家して京都に向かった事をすでに知った。それをひどく哀れんだ。朝盛の父の常盛や祖父の義盛に見舞いの使者を出した。
四月十八日 和田四郎義直が朝盛を伴って駿河の国から帰ってきた。義盛は朝盛に対面し憤怒を忘れた。朝盛は将軍からお召しがあって僧装束の黒衣のまま、御所に向かった。
四月二十四日 義盛が長年帰依していた僧を追放した。世間の噂では、それは表向きで、実は伊勢神宮に戦勝の祈願をさせたのだという事である。それで明日にも、北条と和田の戦いがあるのではと騒然としている。
四月二十七日 実朝の近侍の一人、宮内公氏が実朝将軍の使者として義盛邸に向かった。和田氏に謀反の動きがあると伝わっているのを確かめて来てほしいということである。
公氏は邸の控えの間に入り義盛を待った。義盛は寝殿からやって来た。公氏が訪問の趣旨を述べると、義盛は言った。「頼朝公の時は随分と奉公に励みました。そのため多くの者から抜擢されて賞されたことは身にすぎるほどでありました。しかしながら、頼朝公が亡くなられて二十年も経ずに、まったく没落の憂き目にあっております。かっての功績に報いて頂こうと望みを幕府にあげておりましたが、その願いは叶えられず、今に至っております。謀反などは考えもせず、ただ耐えているばかりなのです」
そのような話しの最中にも、古郡保忠、朝夷名義秀らの猛将が甲冑などを整えている様子が見えた。公氏は御所にもどって、「謀反の気持ちはないと申しておりましたが、すでに、兵具の用意までしておりました」と、実朝に伝えた。