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85 嵐の到来

 二月十五日 晴れ。 頼朝旗揚げに功績のあった千葉氏の当主、千葉成胤ちばなりたねが法師一人を生け捕り、義時に渡した。法師は謀反むほんを企てている者の使いだという。謀反に協力するとの承諾を得るために若宮大路の成胤の鎌倉屋敷にやって来たのだ。法師は信濃の国の者で、成胤はこれは容易ならざる事だと法師を捕らえたのである。法師の身柄は二階堂行村に預けられ、真偽を聴聞するように命じられた。


 二月十六日 捕らえられた法師、安念の白状で以下の謀反の者が各地で捕らえられた。


 信濃の国の住人市村小次郎近村、 籠山次郎 、宿屋重氏、 上田原平三の父子三人、 園田成朝、狩野小太郎、和田四郎義直、和田六郎義重、渋河兼守、和田平太胤長、磯野小三郎だ。さらに、その以下の者も捕らえられた。信濃の国の保科次郎、栗沢太郎父子、青葉四郎、越後の国の木曽滝口父子、下総の国の八田知基、和田奥田太と四郎、伊勢国の金太郎、平広常(旗揚げの時からの従者、梶原景時の讒訴により滅ぼされる)の甥である白井十郎、狩野又太郎らである。その他の首謀者も合わせると130人、仲間を合わせると200人になった。幕府はそれらの者の身柄を鎌倉に届けるよう命じた。

 調べによると故頼家将軍の若君、栄実(1201~1214)を将軍にしようと信濃国の泉小次郎親平が一昨年から上記の者に密かに謀反を呼びかけていたと言うことが判明した。


 二月十八日 園田成朝が預けられていた家から逃亡してしまった。

 三月二日  反逆の首謀者である泉親平が鎌倉の雪の下の違橋たがえばしのあたりに隠れているとの風聞があった。そこで工藤十郎を遣わしたところ、親平はすぐに兵を出して合戦となった。それで工藤十郎と郎党数人が殺害されてしまった。そのあと、逃亡を防ごうと御家人が辻々を固めたが、行方は不明となった。

 三月八日 鎌倉に謀反ありという話しが伝わると、諸国の御家人が続々と郎党を引き連れて甲冑姿で鎌倉にやって来た。和田義盛は謀反の者に子息と孫などが含まれていることに驚いて、領地の上総」伊北庄いほくしょう(勝浦あたり)から急いで上がってきた。そしてすぐに実朝将軍と対面した。義盛は和田氏の長年の功労を訴え、子息の処分を取りやめるよう訴えた。実朝は、義盛の切々とした訴えを聞いて、心うたれ独断で罪を許そうと言った。義盛はひどく喜んで笑顔で退出したという。

 

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