84 嵐の前の静けさ
八月十九日 鷹狩りを禁止するよう、将軍は各地の守護、地頭に伝えた。ただし信濃の国の諏訪大明神の鷹は許された。小鳥たちが遊びの具にされるのを哀れんで実朝が決めた事だが、義時をはじめ、北条家の人々は顔をしかめて「小鳥など保護して何になる」、「軟弱な、それで戦が戦えるのか」と悪口を言った。
九月二日 源頼時は京都で能士として評判が高かった。実朝は、将軍の前駆を務める者が少ないと、頼時を鎌倉に呼び寄せた。頼時は藤原定家と親しい者で、定家の最近の活動を伝えるとともに、多くの和歌の書を持ってきた。義時はこの話を聞いて、この頃の実朝のやり方が面白くない。いずれどうにかせねばなるまいと思う。深く考えると実朝は、どうも実朝の勢力を作っているように見えてならない。そもそも前駆など足りぬわけではないのに、あらたに京から人を連れてくる必要などないのである。
十一月八日 御所で絵合わせの事があった。絵合わせとは絵比べの事である。男女を老組と若組に分け、勝負が行われる。八月の頃に、開催の声がかかったので、それぞれ十分な用意をした。ある者は京都から持ってこさせ、ある者は絵師に絵巻を描かせたりした。広元の持参した絵巻は小野小町の一生の盛衰を描いたものである。結城朝光が持って来たものは和朝の四大師の伝記を描いたものであった。実朝は何巻もある中で、この二巻が気に入った。それで今日は老組の勝ちと決定した。
十一月十四日 八日の絵合わせで負けた若組が賞品を持ってきた。連れてきた遊女に子供の格好をさせている。豪華に多色に染めた水干に紅葉、菊の花などを飾り立て華やかである。それが流行の踊りである延年舞などを披露した。
建暦三年(1213年)実朝二十二才
二月一日 幕府で和歌会がある。題は梅、花、すべて春に限る。義時、泰時、伊賀光宗(義時後妻の伊賀の方の兄)和田朝盛等が集まる。実朝の筆頭女房である大弐局も参加している。