83 義時と実朝の離反
六月二十日 実朝は寿福寺に行った。栄西と談話のあと、栄西から実朝に宝物の仏舎利(釈迦の遺骨)三粒が贈られた。
六月二十四日 実朝は和田義盛の邸に行く。丁重なもてなしがあった。義盛は今、64才である。
「御所様、戦乱のない世は良い世でございますな。おのれは数々の戦場をくぐり抜けて生きてまいりましたが、それを誇る気持ちはありません。多くの武将や百姓の最期を見てまいりました。ご存じの通り我らは三浦から安房の和田に別れた家でありますが、旗揚げ以前は、和田はのどかな村でしたが、旗揚げの頃より近在で亡くなった者が多くなりました。それを見ると何とも言えない気持ちになります」
「そうだね。まだまだ戦は続いているが、だいぶ穏やかにはなったようだ。もう、これ以上血を見るのはたくさんと、私も思っているのですよ」
「そうでござりますな。・・・ところで先日、上総国司となりたいという件、広元殿にお願いしておりましたが、一向に御所に届かないようなので、引っ込めてまいりました」
「あれは、義時殿と広元殿が強硬に反対しているのです朝廷の司である国司をいまさらと言っております。それで私もこれ以上動けないのですよ。和田殿であるなら国司でも良いかと私は思っているのですがね。近頃は義時殿と何かと意見が異なるのですよ」
七月二日 先月御所の政所に宿直の侍同士が乱闘をおこした。死亡が二名、負傷が二名だった。実朝はこの事で不吉であると、血で汚れた政所を建て直すべきだと言った。義時と広元が、主要な者達に意見を聞いて将軍に次のように奏上した。「武士たる者が血で汚れたからと言って大げさに言うべきではありません。血を流すのは武士の本分でありますから、立て直しなどというのは無駄な事ですという意見でございました」
しかし実朝はその上申を無視して、千葉成胤に建て替えをすすめさせた。それを聞いて「つまらぬ費用だ」と義時は吐き捨てるように言った。
八月十八日 伊賀朝光(下級官人の出身。藤原秀郷の流れを汲む関東の豪族。1190年頼朝の上洛に供なう。娘が義時の妻、伊賀の方。推定60才)と義盛を御所の北面の猛者が控えている場所に居るようにと時房を通じて伝えられた。この二人はすでに猛者ではないが将軍が昔の話しを聞きたいと特に選ばれたのだ。