82 北条朝時の事
二月八日 二所詣より鎌倉に帰着した。
三月九日 皆で揃って三浦三崎の御所に行く。実朝、実朝室、政子、義時、解き房、広元、源親広(広元の子)が一緒である。うららかな春の、波も静かな陽気である。半島を船で南下し半島の先端の三崎にある別荘まで数刻かかる。鶴岡八幡の別当(長官)が芸をする稚児などを連れてきている。
船上で舞楽にあわせた舞があった。実朝と室は寄り添って座っている。昼前の青い海上で舞う稚児達は風情のあるものであった。「衣装といい、舞といい華やかで、可愛いですね」室は思わず実朝に語りかけた。実朝はそうだねと微笑みながらうなずく。
五月七日 義時が突然、御所に呼ばれた。実朝は強い口調で言った。「朝時殿(義時正妻の長男、20才。比企氏出身の正妻宮の前は、比企氏が滅ぼされた後、義時と離婚する。朝時を残して京都に行き再婚するが三年後死去したという。宮の前は大変美しい人で義時が追いかけたが、それを受け入れなかったが頼朝が中に入って、義時に大事にするという約束をさせ結婚して正妻となった)が去年京都からやって来た佐渡の守親康の娘で、私の室の官女である者に何度も艶文を送った末、強引に連れ出してしまったという事です。官女といえども、将軍である私の家の奥の女です。その者が私の妾でないにしても、私は妻を奪われた男のようなものではありませんか。私は鎌倉中の笑いものになるではありませんか。朝時どのにそれ相応の処分をお願いします」
義時は、朝時を気に入って、次代の北条を引き継ぐ者と考えていたが、その気持ちを実朝に阻まれてしまった。朝時はこの日以来、北条氏筆頭(後に執権と呼ばれるようになる)となるべき立場を失う事となった。実朝が、このように怒った裏には、その官女に対するひそかな想いが実朝にあったからである。実朝といえども石部金吉ではない、若い男とはそのような者なのだ。少し大きな領主でも妻を何人も抱えていた時代にあっては実朝の気持ちは非倫理的なものではなかった。
実朝の命に義時は従わざるを得なかった。義時の気持ちは怒りで溢れた。実朝が、青年となって、このような事を言い出す前には、物事は義時の思うがままであったのに、この頃は実朝が邪魔であると思う事が多くなった。