76 実朝 和歌の秘密
吾妻鏡には書かれていないが、正統な史学によれば、この頃、実朝は自分の和歌集「金塊和歌集」全663首の編纂に取り組んでいたはずであるが、吾妻鏡にはその影すらも見えない。もう数年後に「金塊和歌集」が出来上がったと伝えられているからである。これほど制作年月がはっきりしているのは以下の事情による。
昭和四年五月に金沢の松岡家で発見された「金塊和歌集」があった。これはもと藩主の前田家所有の書であったという。発見者は著名な歌人で国文学者の佐々木信綱である。巻頭には定家が書を書きこの書の巻末に定家に似た書体で「建暦三年十二月十八日」と日付が記されている。しかしながら建暦三年(1213年)の十二月六日には改元があって健保元年となっているから正しくは建保元年十二月十八日と書かれるはずであるが、そうでないのは、鎌倉でこの日付が書かれたから、この日までに改元の知らせが京都より届かなかった為と考えられる。定家の書をかかげておきながら、どうも、鎌倉で作成されたようなこの写本(建暦三年本と呼ばれている)には怪しいところがある。
この写本が発見されるまでは、建暦三年十一月二十三日、実朝二十二才の時「万葉集」を贈られて、初めて、この本の全歌にふれて実朝の歌の進展があったといわれてきたのである。つまり実朝の、魅力的な万葉調の歌の全ては、二十二才以降に創られたと考えられていたわけなのだ。当然の事ながら、その集大成である「金塊和歌集」は、もっと後年に作成されたと言うのが、それまでの定説であったのである。それが建暦三年本の発見で、その説はひっくりかえってしまった。
しかし、そう言うことになると、おかしな事が起こる。まるで二十二才から先、実朝にめぼしい歌がなくなってしまって、実朝が歌をやめてしまったように見えることがそれである。
だから筆者は、建暦三年本は偽書であると断定したい。それでこそ、実朝らしい日々があると思うからである。
次に実朝の創作の秘密を探ろう。実朝の和歌についての研究は吉本隆明の「源実朝」が優れたものだ。以下の記述は、その受け売りといってよいものである。
箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ 金塊和歌集 巻の下 雑部
この歌は二所詣の体験に次の万葉の歌との融合で出来上がったと考えられる。
浪の間ゆ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢わずして 万葉集 巻11・2753
相坂をうちいでて見れば淡海の海 白木綿花に浪立ち渡る
万葉集 巻13・3238
又、もう一つの名歌
大海の磯もとどろによする波割れて砕けて裂けて散るかも 金塊和歌集 巻の下 雑部
この歌も、実朝の体験と次の歌が融合して出来上がったように考えられる。
伊勢の海の磯もとどろに寄する波 恐き人に恋ひ渡るかも 万葉集 巻4・600
大海の磯もとゆすり立つ波の 寄らむ思へる浜の清けく 万葉集 巻7・1239
聞きしより物を念へばわが胸は 破れて摧けて利心もなし 万葉集 巻12・2894