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75 もめ事と安堵

 四月二日 先日、 陸奥国長岡(現、宮城県大崎市)の新熊野神社の住職隆慶が鎌倉にやって来て訴えた。馬場資幹が地頭と言うことで自由勝手に神田(神社の所領)を横領していると言うことだった。

 問注所(裁を司る所)で資幹は言う「この地は元は畠山重忠氏が知行していました。その知行の先例を守って処置しておりますので神社の訴えは正当ではありません。しかしながら神を敬うと言うことで、もとの三十町に加え十町を神田と致します」

 問注所のこの調べについて今日御前(実朝)の前で審議がひらかれた。

「神社は、本来荒野であるところに社を建て、かってに社領と称している。特に鎌倉の許可もないものだからおそらく訴える余地はないが、資幹があわせて四十町を租税免除の地と認めることは適当な事だ。従って、これによって住職隆慶は告訴を取り下げなさい」と、実朝は直接告げた。


 鎌倉幕府のこのような公平で欲張らない姿勢は、鎌倉安定の根拠なのである。また、将軍直々の判決は人々には、得難い感動的なものであったと思う。この判決は文書をもって権利書としての正統な価値をもたらした。言い分を将軍が聞いて、権利を書いた書状に将軍の花押(特殊意匠した印)を押す、この文書は将軍が変わっても権利書として通用し、幕府はその権利を保護する。これが、鎌倉幕府の「安堵あんど」という根幹の制度である。


 四月二十九日 曇り


 実朝は父の頼朝が作った、山も含めると十万坪もある大池を前にして二階建ての壮麗な本殿から両翼に釣殿などの分殿を広げた風雅な庭園寺院永福寺(ようふくじ)に夜明け前に、徒歩で出かけた。北条泰時、藤原範高(のりたか)(熱田大宮司・後に幕府学問所奉行、和歌に堪能であったのだろう)、内藤知親、二階堂行村、東重胤、町野康俊(この時34才、三善康信の息子)一行である。永福寺まで十町ほど(1㎞ほど)で近いのである。

 ここで昨日の朝、ホトトギスの初鳴を聞いたという言う者がいて、今日の朝に出かけてきたのである。

山の麓で数刻(一時間以上)待ったが、その鳴き声を聞く事はできないで、がっかりしながら帰ってきた。永福寺は僧が少ないのか、寺が荒れていたのか、吾妻鏡には実朝が近所に住む二階堂行村に奉行(管理担当)をするように命じたと書かれている。



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