74 永福寺の梅の木
十一月二十一日 雪が降っている。幕府南面の池がしつらえてある大庭の前の館で和歌の会が開かれた。多数の者の中に東重胤、和田知盛の顔もある。
承元五年(1211年) 実朝二十才
元日 北条義時邸で垸飯があった。時房が将軍の刀持ちとなり、源親広(すでに書いたが広元の子)が調度役をうけもった。結城朝光が行騰(毛皮などで出来た、狩りの時着用する足覆い。所領の結城は現在茨城県結城郡、草深い所で有るから、狐、狸などの毛皮は豊富だったのだろう)をみやげとして持ってきた(誰にかは不詳)。
二日 中原広元邸でが垸飯が行われた。将軍の刀持ちは源親広である。
三日 小山朝政邸で垸飯が行われた。結城朝光が将軍の刀持ちを担当した。その後、夕刻になり御所で酒宴が行われた。趣向として延年の舞(東大寺などでの大法会の時、余興として行われる、僧侶、稚児などによる様々の舞)が行われた。義時、時房等が引出物をたまわった。
一月十六日 晴れ。京都の使者が鎌倉に到着した。去る五日に将軍家実朝が正三位に任じられたと伝御書が渡された。
閏一月九日 晴れ 永福寺は宏大な山林の丘の寺域に囲まれた頼朝が美観を求めて創建した寺である。良い梅の木があったので一本、実朝の居所のある御所の北面に移植した。この木の種は北野天満宮(京都市、上京区在。菅原道真を祀る)の梅の木のものである。芳香が素晴らしいばかりでなく、鶯の巣があって風雅である。
二月四日 実朝と室の為に祈祷が行われた。一向に子が授からない。そのための祈祷なのである。
二月二十二日 実朝が鶴岡八幡宮にお参りした。結城朝光が刀持ちを勤めた。去る承元二年(1208年)以来疱瘡の跡をはばかって、参宮しなかったが、三年ぶりのお参りである。
三月九日 改元 延暦元年。