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73 源氏物語、平家物語と実朝

 八月十六日 曇っているので多少涼しい。実朝は馬場の儀を見るために鶴岡八幡宮に出かけようと思う。昨日は暑さで体調が優れず、放生会を欠席してしまって、義時に代理で出席してもらった。今日の事も義時に任せてあったので、ちょっと出席しにくい。それで、こそこそと女房の乗る、女めいた色合いの輿で桟敷さじきに入った。政子と室も、桟敷にやってきた。流鏑馬やぶさめ・競馬が終わった後、祖先を祀る分社前に場所を移して相撲会が行われた。

 泰時の家来の岡部平六と犬武五郎(相撲名手)を連れてきて対決させると、岡部が負けた。次には広瀬四郎と半島西浜の鬼童丸(相撲名手)を二度対決させた。二人の勝負はなかなかのもので、勝負がつかず、見入る人々は良い勝負だと強い拍手で褒めたたえたという。


 九月十三日 御所で和歌の会が開かれた。源親広(ちかひろ)と源光行と内藤知親が座を作った。


 源親広は朝廷の権力を握る公家、源道親みちちかの猶子となったのでこの名となったが実は中原広元の長男である。後の朝廷と鎌倉幕府の大決戦、承久の乱で朝廷側で闘うこととなる。、源光行(みつゆき)(1163年生)はこの年48才。頼朝に対抗し平家側で闘った父の助命を請う為に鎌倉にやって来たが、才覚と人物を認められ、初代政所別当となる。朝廷と幕府の関係を良好に運ぶために鎌倉と京都間を往復することが多かった。歌人としても名高く、建久二年(1191)に、頼朝の声かけで上方で行われた大規模な若宮歌合の主宰者を受け持った。後の承久の乱で朝廷側についたが、それでもその才を惜しまれ助命される。そのあと執権北条泰時の下で、和歌所、学問所を設置する。源氏物語の注釈書として名高い「水原抄」《すいげんしょう》を藤原俊成、定家らと協力して書き上げ、さらに源氏物語の本として非常に重要な河内本をまとめた。また一説に平家物語の作者とも言われている。内藤知親はすでに前記したが藤原定家の弟子である。


 ここで、特筆すべき事は、実朝側近に、源光行のような源氏物語の研究者で、和歌に堪能な者がいたと言うことだ。今で言えば、大学文学部の大研究者兼創作者というような光行の高雅な存在は実朝の若き日の強烈な刺激であり先生であったに違いない。光行はこの時は大和国司を降りていて、大和前司と呼ばれているが、近畿の情勢に詳しい光行は広元の重要な左腕であった事は間違いはない。光行の源氏物語への深い知識は、当然の事ながら実朝をして、源氏物語を愛読させた動機になったに違いない。


 九月三十日 戌の刻(午後八時頃)西方の夜空に妖しい星があらわれた。光は西から東を目指しており、中心部分は三尺(90㌢)尾の長さは一丈(2㍍)もある巨大なものである。

 世情が騒然とし、鎌倉でも京都でも厄落としの祈祷が盛大に行われた。


 十月十五日 聖徳太子の十七条の憲法と太子が物部守屋(用命天皇の大連。蘇我馬子に攻められ敗死した)から取り上げた領地の場所と広さ・法隆寺などに納められている宝物などの記録が見たいとかねがね広元に仰せつけていたが、この日手渡された。



 

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