72 実朝と義時の歪み
十一月四日 実朝がこのところ毎日、歌に夢中なのを見かねて、義時は弓馬の事を軽んじてはいけませんと諫めた。それで幕府内の政治審議をする小御所の東面の小庭で弓の勝負が行われた。和田常盛らの猛者が参加した。実朝はおとなしく従ったが内心は面白くなかった。
十一月十四日 義時が長年、自分で使っている家臣を御家人として取り上げるように将軍に内々お願いしていたが、許可が得られなかった。実朝はこう言った。
「相州殿(義時の事)そのような者達は、自分の由緒もわきまえず、今度は幕府内の昇進を考えるのでは。これは後難を招く原因となるでしょうから、それは許せません。それに御家人は将軍直接の家来です。北条の家来を御家人にしてしまったら、おかしな事になるのではないですか」
義時は、まさか将軍がそのような言葉で意見をいうとは考えてもみなかった。あの可愛かった実朝が、今、上司として姿を現し始めたと思った。それに、この頃は和田に優しく、北条に冷たいと思った。
十一月二十七日 実朝は和田義盛が希望していた上総の国司着任の件について本人に近々、沙汰があるであろうと伝えた。義盛はそれを聞いてひどく喜んだと言う。
十二月一日 実朝室のお世話役、近侍の者も将軍のお供、公事をするよう、実朝将軍が決めた。もともと夫婦が別の家臣を持っているのは不自然な事であった。婚姻の前までは実朝の周りは御家人だけであった。ところが室が京から連れてきた家来は、御家人ではない。この二者の存在が水と油の存在だった。
実朝は、自分の独断で、先日、家来のことで義時に禁止したことを、自分にかかわりのある家来に関しては許したも同然となった。この突然の決定が、義時を非常に不愉快にした。
承元四年(1210年) 実朝19才
五月六日 実朝将軍は広元邸に行った。義時、泰時なども来る。和歌会の後、宴席があった。
広元は実朝に三代集(古今和歌集・後撰和歌集・拾遺和歌集の三和歌集。これらは初期の勅撰〔天皇の命で選定した〕和歌集である)を贈り物とした。
五月二十一日 実朝は船に乗り由比ヶ浜から三浦三崎に渡る。船中で琴、琵琶、笛を用いた管弦を奏させた。室も女房達も同乗して賑やかである。