71 和田義盛の願い
承元三年(1209年) 実朝十八才
五月十二日 実朝が尼御台所(政子)を呼んでこう言った。「和田義盛殿が旧来からの功績を認めて国司に任命して頂きたいと申していますが、どうでしょうか」
「国司の事に関しては、侍の着任は、故頼朝将軍の時以来停止するよう決められているのですよ。国司というものは、朝廷の地方主席官です。そのような旧制度の役職に鎌倉の侍が着任して何の意味がありましょう。故将軍はそのようなお考えだったのです。義盛殿のそのような願いに乗ることは、女の浅知恵と御家人の人々のそしりとなりますよ」
五月二十三日 義盛は以前から、内々の望みであった上総の国司、着任の要望を嘆願書として幕府文書係筆頭の中原広元に提出した。文書には、頼朝旗揚げの始承以降からの度重なる武勲を書いた後、国司任官は義盛の残された人生のたった一つの執着と書かれていた。
七月五日 実朝は夢に見たと言って、二十首の歌を住吉大社(大阪)に奉納した。歌に巧みな内藤朝親がお使いとなった。朝親は前記したが高名な藤原定家の門弟である。住吉社は和歌の神様であり、京の歌人の良く参拝するところである。また、それにあわせて十四才の初作以来の和歌の作品から三十首を選び、合点(評価)のため京都の定家のもとに届けさせた。
八月十三日 内藤朝親が京都から帰ってきて朝方に早々やって来た。吉報を早く届けたいのである。実朝の歌に良い合点をくれたという。合点という言葉は、後世の江戸っ子の「ガッテンだ」の語源で、和歌から出た言葉である。現在の私達は文書にしばしば レ を入れチェックと呼んでいるが、これを以前の人は「ガッテン」と呼んでいた。和歌集に秀作などがある時、レ をしるし、良い!という目印とするのだ。 このことをガッテンを頂くという。定家のように高名で、歌の評価に厳しい歌人が合点をくれたと言う時、実朝の唄を非常に高く評価したという事を意味しているのだ。
「そうか、定家殿が合点をくれたのか!嬉しいね!本当に嬉しいね!こんなに嬉しいことは初めてだよ!」
「定家殿は殿のお歌にひどく関心なさっておいででした」
「自分が作った歌が良いものかどうかは余りよく判断できないものだよ。こうして定家殿ほどのお方に合点を頂くとやっと自信がつきますね」
そういって庭に眼を移すと夜来の雨が上がって、まだ朝露を置いた置いた朝顔が幾つも朝の陽を浴びているのが眼に入った。実朝はじんとするような喜びに身体が包まれているのを感じる。
定家は、自著の歌論書「詠歌口伝」(「近代秀歌」と通常言われている)一巻を、この時持たせた。これも悦びをさらなるものにした。