70 熊谷直実の事
政子は浮いた気持ちに饒舌である。この半年余り、実朝の健康を気遣って、室とともに心痛の重苦しい日を過ごしていたから、治癒は嬉しかった。思えば今日まで心置けない日々が少なくは無かった。夫の頼朝が房総にのがれて不在の日々、海に面した伊豆山の僧坊で今日か明日かと平家方についた侍の襲来を恐れた日々もあった。あの心細い日々から見ると、今は天国のようだと思った。
政子は、熊野から京にも足を伸ばした、初めて見る京都の美しさに政子は驚いた。もちろん北条時房が統率する尼御台所政子一行の随兵の逞しさ、力強さは京都の庶民を驚かすのに十分であった。京都御所にで後鳥羽院と面会の時を持った。政子の凛とした姿勢と誇りは、後鳥羽院に負ける者ではなかった。
十月二十一日 東重胤が京都から戻ってきた。それを聞いて実朝は御所に招いた。将軍の前で重胤が言う。「熊谷直実入道が九月十四日、午後、六十八才で亡くなられました。入道が終焉の時だと知ると、縁の深い僧や信者達が東山の草庵を取り巻きました。入道は終焉の時と予告した時刻に袈裟を着て、高座に座り、正座して合掌なされました。まるで病気で無いかのように声も高らかに念仏を唱えながら姿勢も崩さず亡くなられたと言うことです」
「熊谷直実というと、あの有名な蓮生殿の事か?」
「さようでございます。かの一の谷の戦いで、義経殿の奇襲部隊の一人として鵯越の急斜面を馬で落ちるように駆け下り一番乗りを果たしたお方です。驚いた平家の武者は陣から逃走いたしましたが、直実殿は波打ち際を走る華麗な武具の貴公子に眼を止め、追走し、むんずと掴んで馬から引きずりおろし、取っ組み合いの末、組伏せました。短刀で首を落とそうと言う時、その貴公子は、可愛らしい少年で、わが子の小次郎のように見えたので不憫に思い逃がそうと「私は熊谷直実という者ですが、あなた様はどなたかな?」と問うと「名乗る必要はない。首実検をすれば判るであろう」と答えたそうです。死ぬというその時に、この若さでいさぎよい言葉に、直実の眼には涙が浮いて手を緩めようとすると、源氏の軍勢は直実の背後にせまっていました。「・・・お逃げ頂いても、もはや名もない雑兵の手に落ちるだけ、同じ事なら直実の手におかけ申して、後生供養いたしましょう。」と言って泣く泣く首を切ったと言うことです。後で調べますと、この貴公子は平敦盛と申す、平清盛の甥っ子十七才(数え年)でありました。直実殿はそれを悔いて武家をやめ出家したい思いひとしおだったそうです。
「辛いことだね。十七才と言えば、今の私のような年頃ですね。直美殿は優しい心もちの方だったのですね。出来れば往年は鎌倉に戻って頂いて、仏の道を説いてい頂きたかったですね。それであれば鎌倉はもう少し流血も少なく、ましなのでしょうね」