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7 北条と比企の争乱

土肥惟光といこれみつ後藤信康ごとうのぶやす所朝光ところともみつ尾藤次知景びとうじともかげ工藤行光くどうゆきみつ金窪行親かなくぼゆきちか加藤次景廉かとうじかげかど同太郎(同じく長男)景朝かげとも新田忠常(ただつね)(前記は古郷、伊豆の伊豆の武士団)などを始めとした御家人と、その郎党の大軍勢が小御所を雲霞のように取り囲み、襲いかかった。小御所に立てこもったのは比企三郎、四郎、五郎、河原田次郎(比企の猶子ゆうし、猶子は養子より意味が軽く、兄弟の子のように大事に思っていると言うことを法的にしたもので、姓も変えず、同居しなくても猶子にできるが相続に際しては重視される。このころまで養子と猶子は同じ意味だったが、多くの猶子をつくるなどに際して関係を軽くしたようである)、笠原親景(ちかかげ)、中山為重(ためしげ)糟屋有季かすやありすえ(前記三人は能員の娘婿(むこ)と、その郎党である。

 両者いずれも平家と闘ってきた歴戦の勇士であるから激しい戦闘となった。攻防はさるの刻(午後3時~5時)まで続いた。北条側も多くの者が傷ついたが、源頼朝の挙兵からの重臣で、頼朝の二度の上洛(京に上ること)に際して先陣をつとめた古豪畠山重忠(はたけやましげただ)は良く采配を振るい、弱った武者を新しい武者と入れ替えて激しく比企側を攻め立てたから、ついに比企の兵士は館から逃亡し、残った笠原朝景は郎党ともに館に火をかけ若君の前で自殺し果てた。

 九月三日 幕府は逃亡した比企の残党を捜し求めた。捕らえられた者には流刑、死罪の刑をあたえられ執行された。比企家ゆかりの妻妾や二歳にも満たない子息などは和田義盛に預けられ安房の国(千葉)に住まわせた。

 頼家の若君、一幡君六才の姿が見あたらなかった。しかし数多くの遺骸の中に混ざって菊に枝を配した菊枝の文様が一寸四方焼け残っている。生き残った一幡君の乳母の一人の証言によれば、最期の時、一幡君はその染め付けの小袖を着ていたという。したがって後世、一幡君がそこで亡くなったのか逃亡したのか考証が別れている。

 一幡君も亡くなったと聞いて祖母の尼御台所(北条政子)は深い悲しみに包まれた。それとともに父、北条時政の思いやりのない采配を恨んだと言う。


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