表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/116

65 実朝二所詣

 一月二十六日 伊豆山権現からは、海沿いの道を鎌倉に向けて進む。頼朝が房総に向けて脱出したという真鶴まなづる半島が水色の海上に浮かんでいる。やがて頼朝が深夜に豪雨の中、敗退したという石橋山が、実朝に示された。事情を知っている実朝は「あれが石橋山ですか」と、その方を馬上から見つめる。岡ほどの山並みが青い海から立ち上がっている。

 実朝一行は石橋山の中に進み入った。林の中に頼朝臣下の佐奈田与一さなだよいちの石碑が立っている。「ここで三浦勢の支援を待っていた頼朝公や我々は、その到来の遅れに孤立して平家方の軍勢に蹂躙されたのです」これはこの戦場にいた北条義時の説明である。

 

 吾妻鏡では頼朝は箱根権現に逃れたとあるが、筆者が2008年、佐奈田与一を祀る、当地の佐奈田

霊社を訪ねて、山主、原義昭氏から聞いた話がある。頼朝一行は芦ノ湖の箱根権現に逃れたのではなく、当時あった箱根権現の分社(石橋山の山奥にあったという)の修行者に食糧を提供され、獣道の様な山道を案内されて真鶴に逃れたのだと云う。そして真鶴にようく逃れて、漁師網元に酒と食事でもてなされたたそうである。頼朝はそのもてなしを喜んで「褒美をとらせよう」というと漁師は「それならば名前を下さい」と言った。「その方は酒が強い、一斗いっと(十升)も飲んでおるから一斗という名はどうだ」と頼朝が言った。 一斗という名前は、今も真鶴に残っているという。


 一月二十七日 夕刻、実朝の二所詣一行は鎌倉に到着した。


 実朝の二所詣はこの後しばらく途絶え実朝二十一才の時再開される。二十四才の時一度休むが二十七才まで続けられた。


 二月二十八日 法然が土佐の国に配流となった。念仏さえ唱えていれば、救われると言うことで、その門弟、信者が爆発的に増えて、他宗の脅威となっていた。又、風聞では念仏会に出席した女と密通し、乱れているというので後鳥羽上皇は、期を捕らえて実行したのだ。


 三月三日 女房などが寝起きする御殿に近い北の庭で鶏闘会が開かれた。北条時房、源親広みなもとともひろ(広元息子)結城朝光、和田義盛、足達遠元、安達景盛の顔が見える。










評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ