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63 実朝二所詣

 一月二十四日 夜明けとともに箱根権現を出立して、西に下って行く、やがて三島大社の荘厳な屋根が眼に入ってきた。

 三島大社は頼朝の父の義朝が相模一帯と関東南部に開拓領地(自ら切り開いた農地は所有地とすることができた)であった頃、帰依していた神社だ。壮大なやしろは見る者を驚かせた。大きな古木の多い宏大な森に社が点在している。

 三島は伊豆国の国府(平安朝の地方支所)が置かれていた由緒ある場所である。前記したが、三島大社は当初、二所詣に含まれていなかったが、日程に余裕がある事(三カ所を巡っても六日間しかかからない)や、箱根まで来て、源氏と深い因縁のある三島大社が近いなどの事で、二所詣でに加える事を思いついたのだ。頼朝が平家の威を借る、山木一族を打ったのも、三島大社の祭りの夜の事だったのも、頼朝の脳裏にはあって、その縁起によるかもしれない。


 朝方、三島大社の高殿に上ると純白の富士は裾野の方から立ち上がるのが見えた。裾は満開を迎えた社の梅林の花に包まれていて、その景は桃源郷を思わせた。実朝は万葉集に載せられた山部赤人やまべのあかひとの歌を思い出した。この歌はこの先の海辺で歌われたのだ。


 田子の浦ゆ 打ち出て見れば ま白にぞ 富士の高嶺に 雪ぞ降りける


 祈祷のお払いが済んだ昼下がり、実朝は安達景盛らとあたりを少し散策してみる。景盛は言う

「鎌倉殿、見なされあちらにまっすぐ伸びて行く道が京に繋がる東海道でござります」

「景盛殿も、この道を京まで攻め上ったのですか」

「最初の時は富士川まででした。富士川の向こうまで平家の軍勢はやって来ておりました。総数は一万騎ほどでしたな。しかし源氏は軽く十万騎はおりました。富士川をはさんで双方、陣を構えて明日は一戦というその夜、平家はただの水鳥の騒ぎにあわてて逃走し始めたのです。この平家の弱腰を我々は笑ったものでした。・・・その後、逃げて行く平家を追討しながら、この道、東海道を京までまいりました」

「そうか、この道がその道なのか」

介殿すけどの(頼朝)も、あの時は元気でいらした。夢のようでございますな。あの当時から見れば天下も大分、安泰と成りました。しかしまだまだ気を緩める訳にはいきませんな。聞くところによれば後鳥羽上皇は身辺に武士を集め始めているとか。衰えたとはいえ、朝廷は力を結集して鎌倉追討に打って出るかも知れぬと私はおもっております」

「そうか、まだまだ戦いは続くのか」と言って、実朝はその道を見つめる。



 

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