61 実朝二所詣
建永二年(1207年) 十月二十五日改元 承元元年 実朝十六才
一月五日 実朝は従四位の位を朝廷から授けられた。一位から従一位、二位、従二位と下って十位までの位階である。役職でいえば政府省の長官の位だ。しかし、実朝の位は、肩書きのみである。当然の事であるが、鎌倉幕府の成立以来、国政の実権は鎌倉幕府がにぎっているから、朝廷は存続しているとはいえ、朝廷の位階は、もはや権力とは無縁のものとなっている。
一月 実朝室が牛車と女房の牛車、二両(二台)で警護の者に守られて鶴岡八幡宮に参拝する。法華経供養が行われた。主宰する師は定暁であった。鶴岡八幡宮のすべの僧(当時は神仏は同様に考えられていたから、八幡宮を僧が采配していても不自然な事ではなかった。厳しく仏教と神道が分けられたのは明治政府になってからである)が集まってきた。
室が夕方、鶴岡八幡宮から御所に戻って見ると、寝所になっている裏殿に実朝がぽつんと座って、梅に見入っている。
「鎌倉殿お寂しそうですね」
「おや、帰ってきたのだね。・・・寂しくなんかはないです。この素晴らしい梅の香りにうっとりしていました」
「そうですか、良かった」
「心配してくれてありがとう。実は私はあなたこそお父様や家族とはなれて、こんな東国の片田舎に住んで寂しい思いをしているのではと心配しているんですよ」
「まあ本当に鎌倉殿はお優しい」室はにっこりと微笑む。そして、この方の優しさは育ちの良さから来ているのだと思った。
「・・・梅を・・・梅を歌にするのは難しいね、あまりに良い歌がおおすぎる」二人は夕陽を受けた中庭の梅の花を見上げる。
一月十八日 早朝 実朝は二所詣の為、由比ヶ浜に出て、冬の冷たいが清澄な海水で身を清める。習わしの精進の儀である。
ようやく十六才になって、体力もついた実朝将軍が、初めて二所詣を行うのだ。二所詣とは、父の頼朝将軍が始めた祈願行事で、源氏の守護社である伊豆山神社と箱根権現社、それと後から追加された三島大社を巡る旅である。
はじめの頃は鎌倉から相模湾沿いに騎馬で、熱海の伊豆山神社、十国峠を経て芦ノ湖の箱根権現、三島の三島大社と行く行程であったが、のちに変更された。
この順路で巡ると、熱海の伊豆山神社に行く途中、小田原の先、真鶴半島にほど近い石橋山を通る。
石橋山は、故頼朝が平家に対して反旗を翻して、初めて敗走した場所だ。ここで激しい雨中、深夜、直臣の佐奈田与一武藤三郎など、多くの部下を失った末、山中を苦汁の敗走をせねばならなかった。
頼朝は昔日を思い出して落涙したという。一族繁栄を願う行事に最初から涙は不吉だ。頼朝は次回から、伊豆山神社に向かわず、石橋山の手前の小田原で右に、早川沿いを上流に向かい湯本を経て箱根権現に向かう行路を取るようにした。