59 前将軍の若君、善哉の事
四月二十七日 改元 建永元年
六月十六日 故頼家将軍の若君、善哉が尼御台所(政子)の邸に来る。着袴の儀を行った。実朝将軍も来ている。
七才になったばかりの愛くるしい小さな善哉が実朝、実朝室、政子、義時が座る前で袴を着ける。碁盤が部屋の真ん中に置かれている。碁盤の上に乗った善哉に飛び降りるよう、政子が言う。エイと元気な声をあげて善哉が飛び降りる。
皆の拍手が巻き起こった。その後、泰時(義時の息子)が食事の手配をした。祝宴が始まる。実朝はそれとなく善哉を観る。小さいながらきびきびした動作や言葉が前将軍を想わせる。頼家を殺した義時も笑顔であることに実朝は違和感を感じる。
六月二十一日 大蔵御所南庭で相撲会が行われる。義時、広元も来ている。実朝将軍も御簾を上げている。参加の者が庭の中央に進み出た。結城朝光(小山朝光の事。結城を所領としたのでこの名を名乗った。結城氏祖。梶原景時訴状を作成したり、腰越で義経に鎌倉入り不可を伝えたり、幕府で中心的存在として87才まで生きた。文才に優れ、美男子であったという。この時40才ぐらい)が行司を担当した。一番は三浦高井の太郎と三毛大蔵の三郎(鎮西の住人)、二番は波多野五郎義景と大野藤八、三番は広瀬助弘(義時の郎党)と石井の次郎(和田義盛の近親、郎党)であった。
羽毛、着色皮、砂金などが賞品として積み上げてあった。事が終わって勝敗にこだわらず配ろうとしたが、負けて恥ずかしくて逃げてしまった者もいる。探し出して賞を与えたが、その照れようがほほえましかった。
十月二十日 善哉が実朝将軍の猶子(養子のようなものだが。同居したりしないことが多く、いわゆる公式な身分としての趣がある)として初めて御所にやって来た。乳母が三浦義村の妻なので
義村が品物を献上した。
善哉は固くなって実朝の前に平服する。
「そんなに固くならなくても良いのですよ。・・・なにか不自由な事はありませんか?辛い思いなどをしてはいませんか?あなたの事は日頃気にかけて居ました。これからは一層の身内としてあなたをお守りいたしますよ」
善哉は顔をあげてしばらく実朝を澄んだ眼を実朝に向けると「ありがとうございます。御所さまに暖かいお言葉を頂けて嬉しゅうございます」覚えた言葉を復唱しているように言って、お辞儀をした。