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53 時政幽閉 朝雅追討

 閏七月二十五日 鎌倉を二十日に出発した早馬が夜になって京都に到着した。すぐに命令を京都に駐留する御家人に伝えた。


 閏七月二十六日 晴れ 平賀朝雅は後鳥羽上皇の御所に参上してまだ退出せずに囲碁の会に参加していた。御所の小舎人童こどねりわらわ(下働きの童子)があわただしく走って来て朝雅を招き呼び、鎌倉から朝雅追討の令が出ている事を告げた。

 朝雅は全く驚くこともなく、元の席に戻ると、勝負を終えるために碁の石を数えた後、席に居合わせる後鳥羽院に「関東から私を追討せよとの令が届いたとの事です。逃れる術はありませんので朝廷のお仕えも解任させてくださいませ(朝雅は京都守護であるが、北面の武士として朝廷の高位も受け殿上を許されていた)」と言った。

 平賀朝雅は比企の乱(1213年)で動揺する鎌倉に乗じて伊賀、伊勢という平家の本拠地で起きた平家残党の大反乱を総大将として見事鎮圧した清和源氏一派の豪の者だ。

 

 朝雅が自邸に戻った後、京都に駐在する御家人、藤原有範、後藤基清、安達親長、佐々木広綱、佐々木高重が襲いかかってきた。しばらく戦闘の後、朝雅は騎馬で逃亡したが追いかける者の一人であった山内持寿丸の追撃よって射殺された。


 九月二日 内藤朝親(ともちか)が京都より鎌倉に到着し「新古今和歌集」を持参した。

 これは源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経らが後鳥羽院の命で和歌所(和歌集作成の為に設けられた機関)で去る三月十六日編集を終え、院の眼を通し、三月二十六日に祝宴を終えたばかりのものだ。

 かねがね、完成の噂とともに父の頼朝将軍の歌も入っていると聞いて実朝は、見てみたいという気持ちがあったが、京都に尋ねることはしなかった。

 しかし詠み人知らずとして歌が採用されるほどの内藤朝親が実朝の家来であるので、新古今集の完成を早めるよう画策せよと言ってあった。

 けれども、今度の朝雅追討の京都の騒乱で今日まで、帰着すら遅れてしまったのである。



 

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