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47 北条時政の失脚

 六月二十三日 ひつじの刻(午後二時頃)になって、義時以下が鎌倉に戻ってきた。名越邸で時政は戦場の様子を聞いた。義時が言う。

「重忠の弟や親類はほとんど鎌倉に向かっておりませんでした。従って重忠について出向いた者は百騎余りです。さようですから謀反を企てたという事は嘘に違いありません。畠山一族は讒訴ざんそ(人を陥れるための嘘の訴え)によって殺される事とはなったのです。このことは大変不憫なことでした。打ち首を陣に持ち帰りましたが、年来、顔を合わせて親しくして来た事を思い出し涙が出て止まりませんでした」時政は、これを聞いて渋い顔をし、無言のままであった。


 とりの刻(午後六時頃)、義時は父の時政に相談せずに、父の犬である稲毛三郎重成を配下の大河戸行元に討たせてしまった。


 義時はなかなかの謀略家である。父と義母の策略に乗せられたと見せて、膨大な領地を持つ、畠山を討つ。ついでに返す刀で稲毛三郎も討って北条家の力を増強したところで、今度は北条氏の権力を握るために義母牧の方と義母の思いのままとなっている父、時政を失脚させようと思っている。

 稲毛重成は秩父氏の一族である。領地を稲毛(川崎市北部・東京稲毛市またがる地域)に持ったので稲毛氏を名乗った。畠山氏も秩父市の一族で埼玉深谷の畠山に領地を持ったから畠山を名乗った。

 秩父氏は関東各地に、その支族を伸ばして、関東を支配し、姻戚関係のある「関東七党」と呼ばれる関東域の有力武士団のネットワークを形成していた。秩父氏は頼朝の弟の義経に連座して追討され、今やその「長」は畠山と言ってよかった。畠山の一言で関東の武士団が動くとされ、北条には気がかりな御家人であった。

 

 六月二十七日 またしても殺戮と流血だと実朝は思った。祖父にあたる北条時政が有力な御家人を計画的に一族ずつ滅ぼしているのだ。このような争いはいつまで続くのだろうか。鎌倉の平穏を祈願する寺や神社は果たして役に立っているのだろうか。いまの鎌倉ほど仏様の教えと遠いものはない。もっと平和の内に物事を勧めることはできないであろか。聖徳太子の言う、「和を持って貴しとなす」という教えがどこにも生きていないではないか。このような時に実朝に歌ができた。


 塔を組み 堂をつくるも 人の嘆き 懺悔にまさる 功徳やはある


 せっかく、力を合わせて、人道に劣る平家を滅ぼし鎌倉の世を作りあげたのに、今度はその信頼する仲間を仇敵であるかのように惨殺している。これが正しい道であるはずがない。北条は争乱の殺戮のごとに懺悔だと言って寺社や塔やお堂を寄進するが、はたしてそれで良いのだろうか。その人の済まないという思いこそが、人々に功徳を与えるものなのにと言う気持ちをうたったのである。




 

 


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