46 畠山重忠の乱
「これは、義村殿と佐久間六郎殿、何用かな」と畠山重保は言った。
「謀反者とはおぬしら畠山の一族のことだ、身に覚えがあるであろう」と、義村は吐き捨てるように言った。父親ほどの年の男の顔の中に眼がランランと光っているのを重保は見た。
「何を言う。われに何の謀反があるというのだ」
「見え透いた事を、言うことは聞かぬ、皆の者、かかり取れ」
武勇で名を成す重保であるが、たちまち多数の騎馬に包み込まれ、矢を何本も射こまれ、落馬し絶命した。
重保の父である重忠の百三十四騎の軍勢は秩父から鎌倉に向けて南下中であった。重忠は自分が謀反の主役にされていることなどは知らないから、郎党の内の一部の者を引き連れた鎌倉入りなのだ。
午の刻(昼)武蔵の国、二俣川(神奈川県、横浜市)にさしかかるあたりで、何千という騎馬と歩兵に遭遇して畠山重忠は驚いて眼を丸くした。(これは北条義時が大将となっている、御家人という御家人が郎党を引き連れた鎌倉の中核とも言うべき軍勢なのだ)
「これは何事」
接近して行くと楯の後ろから軍勢は矢を射てくる。かねがね噂で時政が、畠山領を狙っていると聞いていたが、まさかと思っていた。それが真実であったのかと重忠は自覚する。こうなっては、弁明も引くことも無駄だ、武将らしく堂々と戦って死のうと決意した。
安達景盛と郎党七騎が鎌倉側の先陣を切って畠山勢に突入して来た。それをきっかけに、乱戦となった。
少数の軍勢ながら、申の刻(午後四時を中とする三時~五時)まで良く戦ったが、重忠はついに愛甲三郎の放つ矢に射られ落命した。三郎はすぐに首を取り義時の陣に参上し献じた。
この場所は現在、万騎が原という地名がついている。万に近い鎌倉の軍勢が、畠山重忠の一行を待ちかまえたからである。当時は稲田と畑がひろがる農地であったが今は住宅地となっている。