41 栄西の事
栄西は永治元年(1141年)生まれである。吉備津宮の筆頭神官の子として生まれた。十四才の時比叡山延暦寺にて出家得度した。その後延暦寺、吉備安養寺、伯耆(鳥取)大山寺で天台宗の教学と密教を学んだ。仁安三年(1168年、平清盛全盛のころ)形骸化した日本天台宗に見切りをつけて、南宋に留学した。南宋では天台山万年寺などで学んだ。万年寺は山にあり、山裾が茶畑であったから茶の知識が得られたという。
当時南宋では禅宗が興隆していて、仏教復興のために禅が重要であることを知る。文治三年再び入宋、皇帝に天竺(インド)渡航を願い出るが天竺に通じる三つの道が蒙古族によって閉ざされていたので許されなかった。建久二年(1191年)臨済宗の嗣法(正当の伝道者)の認可をうける。この年帰国。帰国後筑前、肥後を中心に布教活動に入る。建久五年(1194年)禅宗が広まり始め、天台宗の反発を受ける。建久六年 博多に聖福寺を建立した。これは日本最初の禅道場である。しかし一方で真言宗の印信(伝授の許可)を得て旧来の仏教との和を計った。建久九年 (1198年) 座禅の指導書「興禅護国論」を書いた。京都の布教に限界を感じ、鎌倉に移る。正治二年(1200年)政子建立の寿福寺住職に招かれる。建久二年(1202年)二代将軍頼家の補助により京都に建仁寺を建て住職となった。