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36 実朝の嫁取り

 十一月五日 北条政範が、この日京都で死去した。

 十一月六日 北条政範を京都東山に葬った。

 十一月七日 北条政範の葬儀のため、実朝室(実朝本妻)の京都より出立が遅れていた。この日一行は鎌倉に向けて、出立する。後鳥羽院は法勝寺の小賂に桟敷さじきを作らせて壮麗で若々しい鎌倉武士の一行を見送ったという。

 この日、法然に対して比叡山が蜂起した。法然はそれ以前に「七箇条制誠」を書いて浄土宗徒がしてはならない事を門徒に示した。

 法然は比叡山に学ぶが、承和五年(1175年)43才の時、叡山を降りて、京都東山に住み、念仏の教えを広めた。念仏宗はただひたすら念仏を唱える事によって救済されるという宗教である。この頃の庶民の日々は生き地獄のようであった。絶え間ない飢饉と戦乱と兵役と重い貢納が庶民にのしかかっていた。平家追討のため西国に戦闘をくり広げていた、さすがの猛将和田義盛も、飢饉に見舞われている村々

から食物を調達できず、撤退を言い出したほどのひどい有様であった。庶民は娘を売り、息子を兵に出し、ついには自分と妻を奴隷として身を落とさねば生きていけない状況であった。 このような苦悩に満たされた人々の心に救いを与えたのが念仏宗の、ひたすら念仏を唱えれば浄土に再生できるという教えであった。人々は太鼓、鐘を打ち鳴らし、踊りながら念仏、南無阿弥陀仏を唱えた。

 爆発的な信徒の増大は天台・真言宗を始めとした他宗の危機感を煽った。先に書いた安楽坊は法然の有力な弟子であった。上皇の女房すらも出家させてしまう魅力は、庶民には絶大な威力を発揮したに違いない。


 十一月十三日 京より鎌倉に飛脚が到着した。実朝の室を迎えに出ていた北条政範が五日に亡くなったと言うことが伝えられた。父母の時政と牧の方は比べることができぬほど悲嘆にくれたという。


 十二月十日 御台所(実朝室)の一行が鎌倉入りする。早馬なら昼夜休まず七日で駆け抜ける京都、鎌倉間を一月余り駆けた穏やかな旅だ。道中にあたる東海道の町、村で大勢の庶民が見物に押しかけている。武者の白馬、馬具、甲冑、輿などいずれも贅をこらした物だ。螺鈿らでん金銀細工、西陣織、象牙、鼈甲べっこうが至る所に使われている。

 いよいよ鎌倉入りするという今日、鎌倉の庶民は異様な興奮に包まれている。庶民から御家人、郎党まで満面の笑みで、その行列を出迎えたのである。

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