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34 後鳥羽上皇

 上皇の権力が強いと云っても、それは平家が興る前の事だ。平家から先の上皇は次に書く事情によって、もはや昔日の栄光はない。それは後鳥羽院も例外ではない。つまりはこの時代は奈良、平安と続いてきた天皇家の終焉の時代であることに特筆すべき特徴がある。

 寿永じゅえい二年(1183年)木曽義仲きそよしなかの京都進入によって平家とともに西走した幼帝で平清盛を祖父とする安徳天皇の代わりに、新たな天皇を立てる必要があった。義仲は北陸宮を新帝にすることを勧めたが、後白河法皇は丹後の局(清盛の為に夫を殺され、楊貴妃に例えられる妖艶な美女であったから、たちまち白河法王の気に入る所となり、法王の裁断に影響を及ぼしたという)のすすめで尊成親王四才(後鳥羽天皇)を選んだと言う。それにより1183年から二年間、安徳天皇と後鳥羽天皇は在位が重複する。

 このような事情だから、後鳥羽天皇の即位にあたって、源頼朝の意見は入っていない。またすでに即位した後鳥羽天皇を退位させるような、何らの行動にも出ていない。この当時の頼朝の朝廷に対する姿勢は慎重なものだった。この朝廷策にはもちろん中原広元が活躍することは言うまでもない。

 貴族、寺院の荘園ごとに配置した、頼朝部下の地頭は頼朝の目の届かないところで、思う存分略奪を重ねて頼朝の手にも余るようであったという。頼朝は立ち上げたばかりの鎌倉幕府を安定させるため、天皇や貴族たちや社寺ともめ事を起こしたくはなかったようだ。

 この頼朝や北条氏の朝廷への遠慮が、見た目、朝廷の権力を存続させ続けた。つまり、今まで破綻状態だった平安朝は再び息を吹き返した。京都に、にぎわいと華麗さが戻っても来たのだった。

 実朝より九才年長の後鳥羽天皇が後鳥羽上皇となるころ(十九才の時)には、鎌倉の武力を背景に所領も守られ、かっての朝廷の豪華な生活が復活するようになった。しかしながら、それはあくまでも全国制覇を成し遂げた東国武士達の威光によると言うことを上皇が良く理解していなかったから、やがて後鳥羽上皇は「承久の変」という、究極的な公家世界の滅亡を招く天下を二分する大争乱に乗り出すこととなったのだ。

 後鳥羽上皇の前代の後白河上皇は当時の流行歌である催馬楽さいばら(歌詞に雅楽に似た唐楽の伴奏をつけて歌う)狂いであり、常日頃、歌を歌い、口ずさみながら、多彩な女性関係の中、保元、平治の乱の侍達を手玉に取る黒幕として生き続けた妖怪のような人であって、頼朝をして「日本一の大天狗」と云わしめた。年若い頼朝の弟、源義経はまんまと、懐柔され、兄の頼朝の憎しみの的となってしまう有様であった。

 その「妖怪・大天狗」の息子が後鳥羽上皇であり、彼もまた父に似たところがあった。後鳥羽院の生活は藤原定家の「名月記」には、その様子が描かれている。

 後鳥羽院が二十三才の頃(実朝即位の時)院の遊びは狂気じみたものとなった。賭け事、蹴鞠、競馬、闘鶏、かけ弓、遊女遊び、別荘建設趣味、造園、琵琶、管弦、かくれんぼう、双六、牛車による頻繁な外出、宴会、そして歌会、遊女を多数呼びよせ半裸の格好で乱舞させ、男女が淫行に及ぶ「陽剣の舞」などという事に情熱をあげる爛れきった日々に浸っている。この遊び過多の人生は終世のものであったという。

 

 


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