30 日だまりの陰り、兄将軍が殺害される
三月十五日 御所内において天台小止観についての講義があった。実朝と共に母の尼御台所(政子)も傍らに座っている。
天台小止観は三代目天台大師(実名、智顗西暦538~西暦597、中国隋代の僧)によって書かれた。禅の作法書として初めてのもので、現代にいたるまで、これ以上に詳しい座禅についての書はない。
四月二十日 実朝は広元に言った。
「聞くところによりますと、父上の頼朝将軍の政治文書を御家人おのおのが随分所有しているそうですね。この際、それらの文書に目を通して父上の考えに触れたいと思うのですが、どうでしょうか。どうも私には政治の事で良く解らないところがありますから、もっと学ばないといけません」
「それは良いお考えでございますな。早速御家人に通達して文書をもって来させましょう。よこせと言えば御家人にとっては証文や宝物みたいな物ですから隠してしまうに違いありませんから、借り受けることにして、なるべく多く集めてみましょう」
七月十四日 末の刻、(午後二時ごろ)急に実朝将軍が病気になった。御家人が群れて大蔵
御所にやって来た。相当重く、治る気配が見えない。鶴岡八幡宮で般若心教が唱えられた。
六百巻に及ぶ大般若経の要約である般若心教は三百字たらずだが、仏教のありがたい本質が説かれて功徳があるというので、読経に良く用いられる。
七月十九日 酉の刻(午後五時ごろ)飛脚が幕府に着いた。十八日の昨日、前将軍源頼家が修善寺で亡くなったという文書が届けられた。実朝の病気は相変わらず重い。疱瘡にかかってしまったのだ。実朝はぼんやりした頭で兄、頼家の訃報の文書を開いて見た。
母の、政子が伝え聞いて、あわただしく文書を見に来た。政子の身体は震えていた。文に目を通す政子の顔は蒼白だ。
「頼家がこんなに突然なくなるなんて、嘘です!鎌倉を出立した時には病も癒えて、修善寺で元気にしていると聞いていたのに・・・」
「兄上は、ご病気が再発されたのですか」
「いいえ、殺められたと、噂が伝わっています」
「え!殺められたというのですか」
「父上が、ひょっとすると・・・」
「時政のじいが、殺めたというのですか、まさか!」