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3 北条と比企の争乱

 九月一日 頼家将軍の病がひどく重い。各所の治癒の祈願、祈祷もまったく効き目がないようだ。将軍の危篤を伝え聞いた諸国御家人が、何らかの争乱を予想して、家来の中でもとりわけ屈強の部下を連れて鎌倉に上がって来ている。 御家人の鎌倉屋敷内に入りきれない馬、兵が辻々に群れを作り、天幕まで張るので騒然とした雰囲気は高まるばかりである。 鎌倉の庶民は「叔父・甥(将軍と北条時政)の不和と争乱がすぐに始まりそうだ。関東の行く末は、どうなるのだろうか」と、顔を集めて囁きあっている。

 九月二日 北条時政が突然中原広元の邸宅にやって来た。時政は広元に比企を撃つという計画を明らかにした。時政から相談を受けた広元は「良く考えて行動なさってください」と、内諾とも否定とも取れる返事をした。時政も官僚とはそのような風見鶏であると知っていたから、それを行動への承諾と捕らえるのであった。 中原広元なかはらひろもと(母は再婚している。当時中原姓を名乗っていたが中年になって大江姓に改名した。中原姓は平安朝で文書官として名高い家柄である。家格は大江姓よりすぐれていた。しかし実父が大江氏であるので大江の姓は広元にとって捨てがたかったようだ。広元は一度目の結婚で生まれた子供と考えられるが詳しくは判らない)は京都から頼朝のもとにやって来たから朝廷の風習や規則、人事に詳しく、朝廷との交渉役として鎌倉幕府のなくてはならない中心的な文書執政官として重きをなしている。朝廷の風習に飲み込まれてしまった平家の轍を踏まないためにも、朝廷政治を良く理解している広元の様な人物は不可欠であった。それ故に北条時政の威力を持ってしても中原広元抜きには事を運べなかったのだ。                                           

 時政は突然、天野遠景あまのとおかげ新田忠常にったただつねなどを連れて比企追討に向かった。 天野遠景は頼朝が亡くなった時に出家した。出家と言っても当時の出家は、所領、役職に影響するものではなかったので、多くの武士が何かにつけて出家することが多かった。出家名は連景れんぎょうとつけたので、現在は天野連景で呼ばれている。遠景は頼朝が平家と平安朝によって伊豆韮山あたりに流罪として流されて来た時に近所の天野の地の小さな所領の地侍であった。同じ地域の郷士、工藤氏の娘を母として持った。

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