22 冬の日だまりのような日々
比企一族の滅亡は、実朝に深い衝撃を与えた。実朝は思った。父の頼朝が流人の頃から頼朝の乳母の比企尼は十五年もの長い間、経済的に暖かく支えてくれたのに、北条氏はその恩ある人々を族滅してしまった。なんと無惨なことだろうと。
自分の今の将軍位は、一幡の悲惨な死がもたらしたものだ。自分はその事を忘れてはならない。せめて比企の人々の、み魂を供養せねばならない。そう思って、この法事を思い立ったわけなのだ。政子も割り切れぬ気持ちがあるのだろう、ひそかに回廊のすみで供養に参加した。時政と義時は、この法事の事を伝え聞いて、当然なことだが、不愉快な顔をしたという。
建仁四年(1204年)二月二十日改元、元久元年 実朝 十三才
一月五日 快晴、風静か
将軍実朝は鶴岡八幡宮に初めてお参りする。多数の供が付従った。結城朝光が実朝将軍一の付人として将軍の剣を持った。法華経を安楽房が唱えた。
結城朝光は母が頼朝の乳母のひとりであった。頼朝が千葉から攻め上がって来て隅田川のあたりに来た治承四年(1180年)母の手引きで臣下となった。この時わずか十二才。以来各地を転戦し、壇ノ浦の戦いにも参加(十九才)した。鎌倉に帰還後は戦いを終えた義経が江の島あたりの腰越に戻っていたところに、頼朝の使者として行き「鎌倉入り不可」を伝える事もした。又、横暴を極めた梶原景時に対して、三浦義村等と御家人六十人を集めて「景時糾弾訴状」が作成されたが、その作成者として名を残している。訴状の作成にあたって、六十六人の御家人の中に、まともな文書を書ける者がいないのである。どうやら朝光だけが文に堪能らしい。御家人衆は朝光に文書を書かせて困難を乗り切ったということなのだ。