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17 頼家更迭の背景

 鎌倉幕府の手になる史書「吾妻鏡あづまかがみ」は以下のように頼家を最悪の将軍として描写する。

 一 礼儀を知らず御家人(直々の重要な家来)を何々殿と呼ばず、北条時政すら呼び捨てにした。

 一 御家人の持つ領地が五百町歩(一町歩は秀吉の太閤検地まで三千六百坪なので、計算すると百八十万坪=約六平方キロ)以上の領地を没収し、近侍達に分け与えると言うことで、全国の土地台帳の検討に入った。五百町歩は前記のように六平方キロ㍍である。これは一キロ四方の土地六コ分であるから縦三キロ㍍横二キロ㍍の広さの土地で大きな村ほどの広さにすぎない。小さな御家人には十分な広さかも知れないが千葉氏のような大御家人には驚くべき狭さである。この事には幕府高官、有力御家人はひどく驚いた。御家人の所領を貴族や他の者から守る事(安堵あんどする事)が鎌倉政権の大事な任務であるのに、将軍自ら、その約束を破るとは、政権の自殺に等しい、問題外の暴挙だ。

 一 御家人同士の境界争いの裁きに図面をださせ目の前でまん中に筆で黒々と線を書き込んだ「得た土地が広いか狭いかは運しだいだ、いちいち使いを出して現地を調査していては面倒でかなわない。境界争いは今後もこのように取り扱うから、これが嫌なら訴訟を起こすな」と言ったという。

 一 有力な御家人、安達景盛あだちかげもりに命令を与えておいて、留守にさせた隙に、評判の美人である愛妾を奪った。


 これは、吾妻鏡の描き出す頼家の乱行だが、伊豆修善寺に伝わる話には頼家の違う面が見られる。

 頼家は押し込められた修善寺で近所の子供達と野山を遊び歩き、子供達に非常に人気があったという。現在でもこの地には「愛童将軍地蔵」というものが残されている。

 頼家の執政は若さから来る荒っぽさがあったが吾妻鏡が伝えるほどには所行に問題があったとは思えない。






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