16 頼家移送
怒る時政を、なだめられるのは、北条家の女中頭とも言うべき、伊豆で小さな領主であった北条に昔からいる老練な駿河の局のみであった。「すぐ取り返しに行く、兵も出せ」と声を荒げる時政をやんわりとした口調で「まあまあ、お怒りごもっともでございますが政子様も義時様もよくよくお考えなのでございましょう。殿がお出かけになっては争乱になりかねません・・・私めが事情なり聞いて来ましょう」
駿河の局は尼御台所邸に参上してこう言う。「こちらに多少の粗相はらったかも知れませぬが、うわさのような大層なことはありません。お許し下さるよう時政殿は申しております」
「解りました。千幡の元服と将軍着任が済みましたら、そちらで又、お身の回りのお世話をお願いいたしますと、お伝えください。・・・本当に、あなたのような方がおられるので私は安心しておれます」と政子は微笑む。
去る七日、朝廷は朝廷は実朝に従五位の位と征夷大将軍の宣旨(天皇の命令)を下された。
その文書が今日鎌倉に到着した。
九月二十九日 晴れ 将軍を退位させられた頼家が鎌倉から伊豆の修善寺に護送される。巳の刻(朝十時頃)、甲冑の武者百騎を先駆として女騎(武装した女性の騎馬)も十五騎、豪華な輿が三張、童子姿をした舎人が沢山の矢を馬にくくりつけて歩む。その後を二百騎の武装しない隋兵が続く。馬をゆっくり歩ませている。
女騎や童子姿の舎人(下級武士)を一隊に加えるのは、平安朝風の示威なのだ。天皇の一行には、与太者みたいな者に珍奇な格好をさせて歩ませたりすることがあった。この風俗の取り入れは、やはり中原広元の案によるのだ。
街道の庶民達は頼家将軍護送と知って頭を深々と下げる。実に多くの庶民が街道に出てきて道を埋めている。合掌している者もいる。しかし事が事だけに、庶民はちらちらと行列を上目つかいで盗み見る様子だ。
騎馬は鎌倉の市中を抜け、江の島を沖に見る腰越のあたりの閑寂な田畑を抜ける道にさしかかるあたりから隊列は、速度を速め、あたかも進軍する一隊のように、あたりを気にしながら進んで行くのだった。
頼家がこのように更迭されるのは、頼家のような自我の強い将軍は北条独裁のために邪魔であったからだ。北条時政には頼朝暗殺説があるくらいである。頼家の病は北条時政にとって良い機会であった。以前から時政は将軍頼家の権力を弱めることに熱心であった。
頼家が即位してまだ三カ月しか経たない時、このままでは鎌倉政権は維持できないという名目で時政と広元らは十三人の御家人(中原広元、北条時政、幇助委義時、比企能員、三善康信中原親能、三浦義澄、和田義盛、八田知家梶原景時など)で、主立った執政をとることを決めた。
頼家将軍はこれに対抗して、比企三郎、比企余四郎ら近習五人だけに将軍に目通りできる権限と五人に刃向かってはならないという特権を与えた。頼家が病に倒れたのは、そんな幕府内における勢力争いのさなかであった。