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13 頼朝 旗揚げ

 治承四年(1180年) 頼朝の平家に対する最初の反撃、つまり源頼朝の旗揚げと呼ばれる挙兵が行われた。


 伊豆国の目代(国司の代理人)、山木兼隆(かねたか)は平家・朝廷の威を借りて横暴を極め、近隣の者の怒りとするところだった。頼朝はこの山木邸襲撃を最初の目標に選んだ。この戦闘で勝利のあと、頼朝は相模に向けて進軍するのだが頼みとする三浦一族の合流の遅れもあって、小田原に近い海沿いの小山、石橋山で平家勢に蹂躙される。生き残った頼朝を始めとするわずかな兵は山中を逃走し、小田原に近い真鶴半島から小舟数艘に分乗して房総に逃れた。房総に逃れてから頼朝に運が向いてきた。房総に所領もある三浦氏の手引きで千葉の古来からの大郷士である千葉氏安房氏を手始めに、あたかも将棋倒しのように各地の領主達が頼朝の傘下に入ってきた。まもなく関東一円は頼朝と御家人(家来のうち重要な者、契約により中核的な家来として認証される)の支配する所となった。やがてこの動きは甲州、信州、に広がり、頼朝の勢力の拡大に日時はかからなかった。関東の戦乱を知り、平家と朝廷は兵をそろえ駿河の富士川までやって来る。しかし関東の十万騎という対岸の勢力を眼前に見て、それでなくとも貴族化した平家を中心とした朝廷軍は夜半の水鳥の飛び立つ音に驚き、敗走を始めた。

 関東武士の追撃は、頼朝の弟、義経を将として続き、ついには本州と九州のあいだの潮流が激しい関門海峡の壇ノ浦で平家を悲劇的に水没させて終焉した。・・・武士の時代である鎌倉時代の開幕である。

 頼朝が旗揚げした治承四年(1180年)から壇ノ浦の平家水没の寿永四年(1185年)までたった五年間である。鎌倉幕府を立ち上げるために、このように短い歳月しかかからなかったと言うことに著者は驚く。

 さて、このように瞬く間に鎌倉政権を立ち上げた頼朝だが、今に伝わらない事情で亡くなった年は西暦1199年のことであった。頼朝は旗揚げから19年、57才の若さで世を去った。主として北条家の手になる、歴史書吾妻鏡は写本の諸本いずれも頼朝が亡くなる二年あまりを記事とせず不気味な沈黙を保っている。

 正治元年(1199年)頼朝が亡くなって、頼朝と政子の間に設けられた長男の頼家が十八才で鎌倉幕府第二代将軍として即位する。ちなみに後の実朝(千幡)はこの時。数え八才であった。

 

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