12 流人 頼朝
保元の動乱(1156年)では平清盛、源義朝が武力の勝利者となった。保元の乱後も朝廷内の勢力争いは残って次に平治の乱(1159年)が起こる。平治の乱では平氏と源氏が武闘し、平清盛が(さぶろうもの)の最初の勝利者となった。
平氏は最初こそは朝廷を警備する卑しい臣下であったが、いつしか朝廷の重要官職を次々と取得するようになった。平清盛などは、最高の官である太政大臣かつ天皇の祖父として権威をほしいままとするようになった。朝廷の官、地方の官に平家は急速に増大し「平家にあらずんば人にあらず」とまで人に言われるようになった。
清盛は京都市中に、おかっぱ頭の「禿」なる十五才ほどの少年を300人徘徊させて平家の悪口を言う者を密告させる「恐怖政治」を現出させた。
また官職を得た平家の若君たちは、たちまちのうちに質素と忍耐の(さぶろうもの)の心得を忘れ、貴族の贅沢な風雅に染まり、かつ横暴、無礼で世を渡るようになった。又、地方でも鄕士の所領、社寺の荘園を奪って横暴はとどまる事がなかった。こうした事に対する朝廷や世間の反感は積もっていった。
平治の乱に平氏に破れたが、一方の(さぶろうもの)の旗頭である源義朝の若君源頼朝は14才ながら朝廷の官位もあったが、平清盛の継母(母が亡くなり、その後に父の妻となった人)池禅尼の嘆願により一命を救われ、伊豆の蛭が小島(韮山近在)に流人とされていた。
それから二十年近い後、後白河天皇の第三子、以任王が平家の横暴に絶えかねて源氏に対して平家追討の令を出すにおよんで頼朝の運命は変わってしまった。
源頼朝その人は、この時すでに三十三才の年になっていた。頼朝はこの、伊豆の田舎で念仏三昧の質素であるが、従者達と狩りを楽しんだりもする日々をこの先も続けて行くつもりであった。頼朝の乳母、比企尼(比企氏一族)の手厚い二十年におよぶ付け届けもあって、生活に不自由はなかった。又、源氏の若君であるから人気もあり近在の鄕士、百姓からの頂き物も多かったのだ。
以任王の令はこの平穏な日々の水面に石を投げこむような事だった。この令のために平家が地方の源氏討伐を実行しはじめたのだ。頼朝は妻の政子の実家の北条氏の助力を得て、この勝ち目のなさそうな平家との戦いに腰を上げざるを得なかった。
政子の父、北条時政は平家の憎まれ者である頼朝を政子の夫に選ぶ事を許さず他に嫁がせた。しかし政子の婚家からの逃亡という強い意志に押されて頼朝との結婚を許した。そして又、頼朝旗揚げに主力として荷担した。平家に対する絶望的ともいえる戦いに運命をかける北条時政という男は肝の座った人であった。