「馬は誰が乗っても同じだろう」と婚約者が言うので、愛馬を幼馴染様に貸しました
狩猟会の前夜、ベルントが厩舎に来た。
父は秋の市へ出かけて三日の留守で、厩番が灯りを落とした後の時刻だった。馬房の前にはランプがひとつだけ点いていた。私はミルラの左前脚に湿布を巻いているところだった。伯爵家の次男である彼が婚約者の仕事場に顔を出すのは、春に鞍を見に来て以来になる。靴の泥を気にして、入口で足を止めたままだった。
「ヒルデ。頼みがあるんだ」
「どうぞ」
「明日の狩猟会で、ヨゼファにミルラを貸してやってくれないか」
湿布の端を結ぶ指が止まった。
ヨゼファ・ランゲはベルントの幼馴染だ。ランゲ伯爵家の令嬢で、今年の秋に初めて王家の狩猟会へ招かれた。母君があちこちで自慢して歩くので、王都で知らない人はいない。
ベルントは優しい人だ。それは嘘ではない。ただ、その優しさはいつも、目の前で困っている人のほうへ向く。婚約してからの四年間、約束の日に彼が来られなかった理由は、たいていヨゼファの名前だった。
「彼女の馬は夏に脚を痛めてしまってね。借り物の馬に乗せるのは気の毒だろう。ミルラなら毛並みも姿も一番立派だ。陛下の前に出ても恥ずかしくない」
「ミルラは軍馬の再訓練中です。乗り手を選びます」
「選ぶものか」
ベルントは笑った。悪気のない、いつもの笑い方だった。
「馬は馬だ。誰が乗っても同じだろう」
同じ、と私は胸の中で繰り返した。
この馬を預かって一年と四か月になる。北の戦線から馬匹局へ戻された牝馬で、突撃の角笛で騎兵隊が総崩れになったとき、倒れた仲間の間を一頭だけ走り抜けて生き残ったのだと、記録にはある。
それ以来ミルラは角笛の音を聞くと逃げ出すか、さもなければ固まってしまう馬になった。逃げることを覚えすぎた馬には、どこかで一度、逃げない術を教え直さなければならない。私はそれを一年かけて仕込んだ。怖いときは走らず、その場に立って乗り手の合図を待つこと。左の脚で軽く押し、舌を二度鳴らす。その合図でだけ、ミルラは動く。
「それに君は明日、狩猟会には出ないんだろう」
「ミルラを走らせたくないからです」
「なら厩舎で遊ばせておくより、役に立つじゃないか」
役に立つ、という言い方が耳に残った。ミルラは耳をこちらへ向け、ベルントの気配を測るように鼻を鳴らしている。
「一つだけ、お願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「動かなくなったら、無理に動かそうとしないでください。鞍から降りて、手綱を放してくださればいいのです。叩くことだけはなさらないでください」
ベルントは声を上げて笑った。
「動かない馬なんているものか。ヨゼファは乗馬が上手なんだ」
そうですか、と私は言った。
◇
私は湿布の始末を終え、馬房の戸の前でベルントと向き合った。
「お貸しします。明日一日だけ」
「助かるよ。君ならそう言ってくれると思った」
「その代わり、お返ししたいものがあります」
左の薬指から指輪を抜いた。銀の台に小さな琥珀が嵌まった婚約の指輪だ。四年前、ベルントが伯爵家の庭で、少し照れながら渡してくれたものだった。
彼の手のひらにそれを載せると、ベルントは意味が分からない顔で私を見た。
「何の冗談だ」
「婚約は今夜限りで解消させてください」
「馬を貸す貸さないの話だろう。そんなことで拗ねないでくれ」
「拗ねてはおりません。誰が乗っても馬は同じだとおっしゃいましたから、そう考えたのです。馬が誰でもいいのなら、馬の持ち主の婚約者も、きっと誰でも同じでしょう」
ベルントの笑顔が初めて固まった。
「ヨゼファ様も大切なご友人でいらっしゃいます。どうぞ明日は、お二人でごゆっくり」
指輪を握らせて、私は背を向けた。呼び止める声が追ってきたが、馬房の奥へ入ってしまえば、それ以上は来なかった。
しばらくして、足音が遠ざかっていった。
ミルラが首を伸ばして、私の肩に鼻先を押し付けた。温かい息が髪にかかる。
「ごめんね。明日は、少しだけ我慢してもらうわ」
その背後で、別の声がした。
「貸すのか」
振り向くと、厩舎の入口にランタンを下げた男が立っていた。
騎士団馬匹局の副局長、コンラート・ヴァイデ。三十四歳。月に一度、ミルラの検分のために馬匹局から通ってくる人で、今夜は街道の雨で到着が遅れたのだろう。外套の裾がまだ濡れていた。
無口な人だ。局の記録に載せる数字以外のことを、彼が口にするのを聞いたのは数えるほどしかない。
「聞こえていらしたのですね」
「馬房の戸が薄いからな」
彼はランタンを柱の釘に掛け、ミルラの足元にしゃがみ込んだ。
「あの馬は明日、動かなくなる」
「はい」
「止めないのか」
「止めません。乗り手が違えば馬も違うことは、見ていただければ分かりますから」
コンラートは何も言わず、ミルラの蹄をひとつ持ち上げた。角度をつけて光に透かし、蹄叉の溝を親指でなぞる。
◇
彼は検分のたびに、蹄から順に見ていく。蹄、球節、腱、背中、口。私はその後ろに立って、一年間の記録を読み上げるのが決まりだった。
その夜も同じ順番で、同じことをした。
蹄の削り方を変えた日。腱が熱を持った日。角笛の代わりに銅鑼を使った日。銅鑼を鐘に替え、鐘を笛に替え、最後に本物の角笛を遠くから吹かせた日。ミルラが初めて、その場に立ったまま耳だけを震わせた日のこと。
冬の初めの朝だった。遠くの教会の鐘を鳴らしてもらい、私はミルラの鼻先から手を離さなかった。ミルラは全身で震えていた。それでも脚は動かさなかった。私が舌を二度鳴らすまでずっと、四本の脚で地面を掴んでいた。合図の後で初めて出した一歩を、私は今も忘れていない。馬の首を抱いて、少しだけ泣いた。
コンラートはミルラの首の付け根を押さえたまま聞いていた。
「立ち止まる、という命令を、馬が自分の脚で選ぶまでには、普通は三年かかる」
「この子が賢かったのです」
「賢い馬は他にもいる。あなたの教え方が良かった」
彼はそこで言葉を切り、ランタンの灯りの中で、棚に掛けてある私の鞍に目をやった。
「あなたの鞍の左の鐙だが、右より一孔短くしてあるな」
息が止まった。
「……気付いていらしたのですか」
「三度目の検分のときからだ。乗り手の脚の長さは、鐙の孔に出る」
子どものころ、納屋の梯子から落ちて、左脚を折ったことがある。治りは悪くなかったが、左だけほんの少し短くなった。そのせいで私は十二のときから、左の鐙を一孔短くして乗っている。父は知っていたが、他の人には話したことがない。婚約者のベルントには四年間で一度も気付かれなかった。
鞍は毎週のように目の前にあった。
「人に言うことではないと思っておりました」
「言わなくても、乗る姿を見れば分かる」
彼はそう言って立ち上がり、膝についた藁を払った。
「ひとつ、話がある。馬匹局の調教場に、正式な調教師の席がひとつ空く。ミルラの記録を上に出す。あなたに来てもらいたい」
「女が軍の仕事に就くのは、恥ずかしいことではありませんか」
以前、ベルントに言われた言葉だった。自分のものではない台詞を口にした気がして、私は唇を結んだ。
「恥ずかしいかどうかは、馬が決めることじゃない」
「……少し考えさせてください」
「ああ。明日、狩猟会に来るといい。局の幕から見ているから、そこに来てくれ。ミルラがどうするか、あなたも見ておくべきだ」
コンラートが出ていった後、私は藁の上に座り込んだ。
指輪のあった場所が妙に軽かった。四年間ほとんど外さなかったので、薬指に白い跡が残っている。泣くつもりはなかったのに、ミルラが膝に顎を乗せてきた途端、目の奥が熱くなった。
父が帰ってきたら、何と言おう。伯爵家との縁談を、馬の貸し借りで棒に振ったと言われるかもしれない。
それでも、あの「同じ」という言葉に黙ってうなずいている自分のほうが、ずっと怖かった。
しばらくして、馬房の戸が軽く鳴った。コンラートが錫のカップを二つ持って立っていた。
「厩番の部屋の火を借りた。薄いが、温かい」
受け取ると、薬草を煮出しただけの湯だった。喉を通って体に落ちていくと、肩から力が抜けた。
彼は何も訊かなかった。私が飲み終えるまで、馬房の壁に背を預けて立っていただけだ。
「検分の報告書に、あなたの教え方が局の誰よりも丁寧だと書いた」
やがて彼が口を開いた。
「初めて来た日に、馬の汗の拭き方を見て決めた。他の調教師は右から拭くが、あなたは先に左から拭く。この馬が右から触られるのを怖がるのを、知っているからだ」
私は驚いて顔を上げた。
「あの子の癖は、私しか知らないと思っていました」
「見ていれば分かる」
それだけ言って、彼は空のカップを受け取り、厩舎を出ていった。
◇
翌朝の森は、霧が低く下りていた。
王家の狩猟会の集合場所は森の入口にある草地だった。白い天幕が並び、猟犬を連れた従者が行き交い、馬の汗と革の匂いがあたりに満ちている。局の幕は端のほうにあって、コンラートは椅子を一脚、私のために出してくれていた。
草地の中ほどに、ヨゼファの姿があった。
淡い青の乗馬服に、羽根飾りのついた帽子。ミルラの背の上で、彼女は背筋を伸ばして笑っていた。傍らでベルントが手綱を引き、周りの令嬢たちに何か話している。ミルラの栗毛は朝の光を受けて、確かに誰よりも立派に見えた。
見た目だけは。
ミルラの耳が後ろに倒れていた。
尾を固く下ろして、四肢をいくらか広げている。いつもの、立つ構えだった。
「間もなく角笛だな」
コンラートが低く言った。
やがて森の奥から、王の狩猟頭が長い角笛を取り出した。草地のざわめきが引き、従者たちが馬の轡を取って整列する。
最初の一音が鳴った。
騎手たちの馬が一斉に前へ出た。猟犬が吠え、蹄が地面を叩き、草地全体が波のように動き出す。
ミルラだけが動かなかった。
私は膝の上で拳を握った。前に出たがる脚を、教えたとおりに自分で押さえ込んでいるのが、離れた幕の下からでも分かった。怖いのだ。それでも、立っている。
ヨゼファが脚で馬の腹を蹴った。もう一度、さらに強く。鞭を持っていないことに気付いて、彼女の顔が青くなった。ミルラは一歩も出ない。耳を後ろに倒したまま、四つの脚を地面に打ち込んだように立っていた。
「進んで! どうして進まないの!」
ベルントが手綱を引っ張った。動かない。彼は轡に両手をかけて、体重を後ろにかけた。それでもミルラは動かない。
霧の中から、国王陛下の一行が現れた。先頭の白馬が草地を横切り、その後ろに侍従と貴族が続く。陛下は動かない栗毛の馬をちらりとご覧になり、何もおっしゃらずに通り過ぎた。
最後の騎手が森の中に消えると、草地は急に静かになった。天幕の陰で令嬢たちが囁き合っている。動かない馬の上に座ったままのヨゼファへ、同情と好奇心の混ざった視線が集まっていた。
残ったのは、ミルラと、鞍上のヨゼファと、轡を握ったまま肩で息をするベルントだけだった。
私は立ち上がった。
コンラートも黙って立ち、先に歩き出した私の後ろをついてきた。
「ヒルデ!」
私に気付いたベルントの声は、ほとんど悲鳴だった。
「頼む、どうにかしてくれ。動かないんだ。君が乗れば動くんだろう。ヨゼファの代わりに出てくれ。そうすれば体裁が保てる」
「降りて手綱を放してください、と申し上げました」
「そんな暇があるか。陛下の御前だぞ」
「ミルラは軍馬です。角笛を聞いて動かないのは、教えたとおりの働きです。あなたが言うことを聞いてくだされば、ヨゼファ様も怖い思いをなさらずに済みました」
ヨゼファは鞍の上で泣きそうな顔をしていた。私は馬の横に回り、彼女に手を差し出した。
「ゆっくり脚を外して、私の肩に掴まってください。そう、足を地面に」
降り立った彼女の膝が震えていた。気の毒だと思った。彼女は悪い人ではない。乗れると信じて、馬のことを知らないまま、鞍に座ってしまっただけだ。
私はミルラの鼻先に手を当てた。
「お疲れさま。もういいわ」
ミルラの耳がゆっくりと前へ戻った。引き綱を取って歩き出すと、栗毛の牝馬は大きく息を吐いて、静かに私の後ろをついてきた。
ベルントが呆然とそれを見ていた。
「どうして君の言うことなら聞くんだ」
「乗り手が違えば、馬も違うからです」
「だが、ミルラは同じ馬だ」
「同じではありません」
私は足を止め、振り返った。
「馬は馬だ、誰が乗っても同じだ、とおっしゃいましたね。それなら今ここでミルラを走らせて、ヨゼファ様の代わりにお出になるのも、あなたでも構わないはずです。どうぞ」
ベルントは口を開いたが、声は出なかった。
その後ろで、豪華な外套を着た男がいつの間にか立っていた。王の厩舎を預かる主馬頭だった。角笛が鳴ったとき、ミルラがどうなるかを遠くから見ていたらしい。
「ヴァイデ、あの馬は」
「馬匹局の再訓練馬です。北の戦線で角笛の暴走から生き残った一頭で、一年かけて立つ訓練を仕込みました。調教師は、ここにいるヒルデ・ケスラー嬢です」
コンラートの声はいつもの帳簿を読み上げるような調子だった。
主馬頭は私を上から下まで眺め、それからミルラの引き綱を見た。
「角笛の中で、一頭も暴れさせなかった馬を、私は初めて見た。局で預かっている軍馬を、全部こうできるか」
「一頭ずつ時間をいただければ」
「よろしい。後で局に書状を出す」
主馬頭は軽くうなずき、侍従を従えて去っていった。
残された草地で、ベルントが小さな声で言った。
「ヒルデ。婚約のことは、取り消せるはずだ。父上にも話す。君の気持ちが落ち着いたら」
「同じなのでしょう」
私は静かに答えた。
「誰が婚約者でも、同じです。どうぞヨゼファ様と、新しい馬をお探しください」
◇
それから三日間、ホルスト家からは使いが来た。花束も届いた。ベルントは二度、厩舎の前まで来て、馬房の入口で足を止めたまま、私に話しかけようとした。私は馬の世話をしながら、一度も振り返らなかった。
五日目の夕方には、ヨゼファが一人で厩舎に来た。供も連れず、人参を入れた籠を提げていた。
「ミルラに、お詫びをしたくて」
彼女は馬房の前で立ち止まり、そこから先には入らなかった。足元の藁を見て、靴の汚れを気にする様子もなかった。
「私、乗れると思っていたの。ベルントがそう言ってくれたから。馬の気持ちなんて、考えたこともなかったわ」
「ミルラは怒っていません。怖かっただけです」
「あなたにも、ごめんなさい。婚約者のいる方の馬を、あんなふうに借りるべきではなかったのに」
私は籠を受け取った。ミルラが首を伸ばして、さっそく一本かじった。
「ミルラが許しますから、それで十分です」
ヨゼファは少しだけ笑い、深く頭を下げて帰っていった。
四日目には、ランゲ家の母君が馬匹局に苦情を言いに来たそうだ。馬匹局は丁寧に、軍馬を貸与する際は正式な許可が必要であることを説明して、お帰りいただいたと聞いた。
ミルラは十日後に、馬匹局の調教場へ移った。
私も一緒に、荷物をまとめて王都の北の外れへ引っ越した。
新しい調教場は、馬場の柵が古く、朝は霜でいつも白かった。けれど、広さは前の厩舎の三倍あった。軍馬たちの嘶きが朝の空気の中で響いている。
着任して最初の朝、コンラートが馬場の端で待っていた。
彼は何も言わずに、腕に抱えていたものを差し出した。
新しい鞍だった。
革は深い飴色で、縫い目の糸が真新しい。シートの形は、私が今まで使っていたものと同じに見えて、座面の曲がりがほんの少し低い。
「乗ってみてくれ」
ミルラの背に載せてもらい、鐙に足をかけた。右の鐙は七つ目の孔に、左は六つ目に、最初から革が通してあった。
私は、左右の鐙に体重を預けた。
ちょうどよかった。鞍の上に座ったとき、背骨がひとりでにまっすぐに伸びた。今まで毎朝、無意識にかばっていたのだと気付いたのは、このときだった。
「窮屈ではないか」
「いいえ。ちょうどです」
「馬匹局の鞍はどれも同じに見えるが、同じものは一つもない。ひとつずつ、乗る人の脚の長さで作る。あなたの分は、冬の初めから作っていた」
「……いつから、私が来ると」
「来なくてもいいと思って作っていた。来てくれるなら、そのほうがいい」
「お受けします。調教師の席」
「助かる」
彼は短く言った。それだけの言葉が帳簿を読み上げる声とは違って聞こえた。
彼は柵に片手をかけ、少しだけ視線を逸らした。霜が溶けて、地面が濡れていた。
ミルラが首を曲げて、私の膝を鼻で押した。
誰が乗っても同じなものなど、ひとつもない。左の鐙は私の脚の長さにちょうど合っていた。
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