三年間の契約妻、本日で円満離縁いたします〜不眠症の冷徹公爵様に「安眠茶の引き継ぎ書」を置いて去ろうとしたら、離縁届ごと燃やされて甘く捕まりました〜
銀のポットから立ち昇る湯気に、カモミールとリンデンの甘い香りがふわりと溶けた。
仕上げに菩提樹の蜂蜜を一匙だけ落として、銀のスプーンで静かに三回かき混ぜる。これが、私が三年間かけて辿り着いた「氷の公爵様を五分で眠らせるための黄金比」だ。
トレイを手に夜の廊下を歩き、重厚な黒檀の扉をノックする。
「……入れ」
中から返ってきたのは、冬の夜気よりも冷たく、けれど耳の奥が痺れるほど低く美しいバリトンだった。
扉を開けると、蝋燭の灯りに照らされた執務机の向こうで、私の夫――セオドア・ヴァレンティノ公爵が羽根ペンを走らせていた。月光を紡いだような銀髪に、彫像のように整った顔立ち。その冷徹な仕事ぶりと無表情さから、王都では“氷の公爵”と恐れられている二十六歳の若き当主だ。
「夜分遅くに失礼いたします、セオドア様。本日のお茶をお持ちしました」
「……ああ。そこへ置け」
セオドア様は書類から目を離さないまま、短く頷いた。
私は机の端にティーカップを置き、三歩下がって静かに待つ。やがて羽根ペンを置いた彼が、長い指でカップの持ち手を取り、琥珀色の液体を一口、また一口と喉へ流し込んだ。
カップが空になり、ソーサーの上にカチャンと置かれる。
そこから先は、毎晩寸分違わぬ時計仕掛けのようだった。
セオドア様はこめかみを軽く押さえて立ち上がると、執務室の隅に置かれた革張りの長椅子へと歩み寄り、長い脚を投げ出して深く背もたれに身を預ける。そして、ゆっくりと瞼を閉じた。
一分、二分、三分……。
五分が経つ頃には、彼の薄い唇から、規則正しい静かな寝息が漏れ始めた。
「……ふふ。今夜も、ちゃんと五分で効きましたね」
私は張り詰めていた肩の力を抜き、足音を忍ばせて長椅子へと歩み寄った。
三年前のあの日、没落寸前だった私の実家・アシュフォード伯爵家の莫大な借金を肩代わりする代わりに、セオドア様が提示した条件は一つだけ。「三年間、形式上の妻として公爵邸に滞在し、三年後に円満離縁すること」だった。
社交界の縁談避けの盾なのか、それとも他に理由があるのかは分からない。けれど寝室も別々の『白い結婚』のまま、この屋敷に迎えられた私に課せられた唯一の務めが、激務で重度の不眠症だという彼のために、毎晩こうして安眠のハーブティーを淹れて届けることだったのだ。
私は傍らの毛布を手に取り、長椅子で眠る彼の広い肩へとそっと掛けた。
起きている時のセオドア様は、私と視線を合わせることすら滅多になく、必要な用件以外は口も利いてくれない。けれど、こうして眠っている時だけは、驚くほど無防備で優しい顔をする。
私は彼の傍らに膝をつき、昼間は決して触れられないその銀髪へと、恐る恐る指先を伸ばした。
さらり、と絹糸のように柔らかくて冷たい髪が指の間を滑る。額にかかる前髪をそっと梳かし、頭を撫でるように指先を動かすと、彼の長い銀のまつ毛が、ぴくりとわずかに震えた。
(……あら。夢でも見ていらっしゃるのかしら)
手が止まりそうになるけれど、彼が目を覚ます気配はない。
もっとも、私のお茶の効き目はまだ完璧ではないらしいのだ。こうして五分で眠りに落ちてくれるものの、翌朝の朝食の席で顔を合わせるセオドア様は、いつも目の下にうっすらと青い隈を作っている。おまけに、私が「おはようございます」と声をかけても、なぜか耳の端を赤くして頑なに目を合わせようとせず、無言のまま早々に席を立ってしまうのだ。
きっと夜中に目が覚めてしまって、朝方には浅い眠りになっているに違いない。半年ほど前、私が風邪をひいて一度だけこのお茶を届けられなかった翌朝などは、使用人たちが震え上がるほど氷点下の不機嫌さで執務室に籠もっていたくらいだから、よほど睡眠不足が身体に障る体質なのだろう。
「……今日も一日、本当にお疲れ様でした」
私は彼の銀髪をもう一度だけ優しく撫でると、眠っている彼にしか聞こえないほどの小さな声で、毎晩の秘密を唇に乗せた。
「大好きですよ、セオドア様」
契約妻が抱いてはいけない恋心を、夜の静寂にだけそっと溶かす。
この密かな贅沢も、明日の夜――千九十四杯目のお茶で、最後になるのだ。
◇
翌日の夜。私の私室には、小さな革のトランクが一つだけ置かれていた。
嫁いでくる時に持参した荷物と、ほとんど変わらない量だ。三年間この屋敷で過ごした痕跡をきれいに片付け終えた私は、厨房で最後のハーブティーを淹れた。
千九十四杯目の安眠茶。
今夜はカモミールとリンデンに、眠りを深くするオレンジブロッサムをほんの少しだけブレンドしてある。これならきっと、夜中に目が覚めて目の下に隈を作ることもなくなるはずだ。
私は執務室へ入り、まだ主のいない机の上に湯気を立てるティーカップを置いた。
そしてその横に、二種類の紙の束を並べる。
一つは、私の欄にすでに署名を済ませた離縁届。
もう一つは、私がこの三年間で少しずつ書き溜めた、革表紙の小さな手帳――『公爵様のための安眠引き継ぎ書』だ。茶葉の配合比率から、お湯の温度、蒸らし時間、蜂蜜の量、そして「お飲みになって五分後に長椅子でお眠りになりますから、肩が冷えないようすぐに毛布をお掛けすること」という注意点まで、余すところなく記してある。
ちょうどその時、廊下から規則正しい足音が近づき、執務室の扉が開いた。
「……リディア。まだ起きていたのか」
王宮の夜会から戻ったばかりのセオドア様が、夜露を含んだ外套を揺らして入ってきた。
私はいつものように微笑み、背筋を伸ばして深く一礼した。
「おかえりなさいませ、セオドア様。本日で、お約束の三年間が満了となります。お忙しいところ恐れ入りますが、最後のご挨拶を申し上げたくてお待ちしておりました」
その言葉に、セオドア様の足がぴたりと止まった。
彼の氷のような碧眼が、机の上のティーカップと、その横に並んだ離縁届、そして小さな手帳へと向けられる。
「この三年間、父の借金を肩代わりしてアシュフォード領を救ってくださっただけでなく、私にこのような穏やかな居場所を与えてくださったこと、心より感謝申し上げます」
「……この手帳は、何だ」
「安眠茶の引き継ぎ書でございます。明日からは私がお茶をお淹れできなくなりますので、料理長や、いずれこのお屋敷に迎えられる『本物の公爵夫人』がお困りにならないよう、三年分のレシピをすべてまとめておきました」
胸の奥がチクリと痛んだが、私は声が震えないように必死で笑顔を保った。
これが契約だ。借金のカタに拾われただけの仮初めの妻が、これ以上彼の隣を望むことなど許されない。
「お荷物はすでにまとめてございますので、明日の朝一番の馬車でお屋敷を出てまいります。どうかセオドア様が、今夜からも安らかにお休みになれますように。……三年間、本当にありがとうございました」
もう一度深く頭を下げ、私は彼の横をすり抜けて扉へと向かった。
泣くのは屋敷を出てからにしよう。そう心に決めて、真鍮のドアノブに手をかけた、まさにその時だった。
背後で、セオドア様が机に歩み寄る気配がした。
紙束を無造作に掴み上げる衣擦れの音。そして次の瞬間、部屋の隅で燃える暖炉の方から、信じられない音が響いたのだ。
パチッ、と乾いた音を立てて、私の三年間が青い炎に呑まれた。
◇
「な、何をなさるのですか、セオドア様!?」
振り返った私の目に飛び込んできたのは、暖炉の炎の中でめらめらと黒く縮れていく離縁届と、革表紙の引き継ぎ書だった。
慌てて駆け寄ろうとした私の前に、長い影が落ちる。いつの間にかすぐそばまで迫っていたセオドア様が、私の顔のすぐ横の扉に片手をつき、逃げる隙を完全に塞いでいた。
「セ、セオドア様……? あちらは私が三年間かけてまとめたレシピで、離縁届も――」
「誰が、離縁すると言った」
頭上から降ってきた声は、地底から響くように低く、どこか獰猛な熱を帯びていた。
見上げた私は、思わず息を呑んだ。いつだって氷のように静まり返っていた彼の碧眼が、今は暖炉の炎を映して激しく揺れている。
「本物の公爵夫人だと? 次に来る女などいない。このヴァレンティノ公爵家の女主人は、三年前も、今も、これから先も、リディア――お前ひとりだ」
「え……? で、ですが、三年間というご契約で……」
「あれは、お前を安心させるための口実だ」
セオドア様は苦渋に満ちた表情で眉根を寄せ、扉についた手にぎゅっと力を込めた。
「三年前の春の夜会だ。社交界の華やかな喧騒が苦手でバルコニーに隠れていた俺に、それとは知らず、庭のハーブの効能を夢中で話してくれた令嬢がいた。……あの夜から、俺はずっとお前に心を奪われていた」
「あ……っ」
記憶の奥底が弾けた。まだ実家が傾く前、王宮の夜会で一度だけ、暗がりにいた長身の青年に薬草の話をしたことがある。あれが、セオドア様だったというのか。
「直後にアシュフォード家が借金で窮地に陥っていると知り、俺は迷わず救済を申し出た。だが……金の力で縛り付け、無理やり買い叩いたような形になってしまった。まだ十七歳だったお前は、氷の公爵と恐れられる俺の前に立った時、小鳥のように震えていたからな」
彼のもう片方の手が、私の頬へと恐る恐る伸ばされ、壊れ物に触れるようにそっと添えられた。その指先は、驚くほど熱い。
「だから三年という期限を設けた。『いつでも逃げられる』と思えば、少しはこの屋敷で息ができるだろうと。三年間かけてお前に居場所を与え、期限が来た日にすべての借金を帳消しにした上で、一人の男として、対等に求婚し直すつもりだったんだ」
「そんな……っ、それならどうして、普段は目も合わせてくださらなかったのですか?」
「……お前と目を合わせると、見惚れて言葉が出なくなるからだ。近づけば、そのまま抱きしめてしまいそうで、距離を取ることしかできなかった」
不器用にもほどがある告白に、私の瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
冷徹なんかじゃなかった。嫌われてなんか、いなかったのだ。
「ばか……っ、セオドア様の、ばか……っ!」
「リディア……?」
「私だって……っ! 私も、ずっとセオドア様をお慕いしていました! でも、ただの契約妻が恋心を抱くなんて契約違反になるから……っ、起きているセオドア様にはご迷惑だから、眠っていらっしゃる時だけ、こっそりお伝えしていたのに……っ!」
顔を覆って泣きじゃくる私の手首を、セオドア様が不意に強く掴んだ。
そのまま引き寄せられ、分厚い胸板の中へとすっぽり抱きすくめられる。耳元で彼の激しい鼓動が鳴り響き、顎先を掬い上げられたかと思うと、涙で濡れた唇に、焼けるように熱い口づけが落とされた。
「……っ、ん……!」
何度も角度を変えて重ねられる深い口づけに、膝から力が抜けていく。
どれくらいそうしていただろうか。ようやく唇が離れた時、セオドア様は私の腰を強く抱き寄せたまま、額をコツンと合わせて荒い息をついていた。
「……もう二度と、この屋敷から出ていくなどと言うな。お前がいなくなったら、俺は息もできない」
「はい……。ずっと、お傍にいさせてください」
幸せで胸がいっぱいになりながら、私はふと執務机の上に視線を向けた。
そこには、もうすっかり湯気の消えてしまった千九十四杯目のティーカップが、ぽつんと残されている。私は涙の残る目元を綻ばせて、彼の胸の中でくすりと笑った。
「……でも、少しだけ残念です。せっかくセオドア様の不眠症に効くお茶を完成させたのに、今夜はもう冷めてしまいましたね」
◇
私がそう口にした、その瞬間だった。
私を抱きしめていた無敵の公爵様の身体が、ピシリ、と音を立てんばかりに強張ったのだ。
「……セオドア様?」
不思議に思って見上げると、先ほどまであんなに情熱的に愛を囁いていた夫が、なぜか急に気まずそうに視線を逸らしている。しかも、蝋燭の灯りのせいではなく、その彫像のように美しい横顔から耳の先端までが、見る間に真っ赤に染まっていくではないか。
「あの、どうかなさいましたか……? もしや、お体にどこか不調でも……」
「……いや。違う」
セオドア様は片手で自らの口元を覆うと、深いため息をつき、観念したように目を閉じた。
そして、消え入りそうなほど低い声で――けれどはっきりと、こう告げたのだ。
「……すまない、リディア。もう一つだけ、お前に隠していたことがある」
「隠していたこと、ですか?」
「俺は……最初から、不眠症などではなかった」
きょとん、と私は目を瞬かせた。
「えっ……? で、でも、お屋敷に伺った最初の夜から、私のお茶を飲むと五分でぐっすりお眠りになって……」
「あれは……寝たフリだ」
時が止まったかと思った。
耳まで真っ赤にした氷の公爵様が、私の視線から逃げるように斜め下を向きながら、ぼそぼそと白状し始める。
「三年前の結婚初夜、俺と二人きりになったお前は、真っ青な顔で震えながら『ふ、不眠に効くお茶を淹れてまいりました』とカップを差し出しただろう。あれを見て、俺が起きている限りお前は緊張して休めないと思い、よく効くと言って長椅子で目を閉じたんだ」
「そ、そんな……じゃあ、最初の夜は……」
「ああ。だが、俺が眠ったと思ったお前が、足音を忍ばせて近づいてきて……俺の髪を撫でながら、『近くで見ると本当に綺麗な方。仲良くなれたらいいな』と呟いただろう」
ぶわっ、と今度は私の顔が沸騰したように熱くなった。
た、たしかに言った。初日の夜、あんまりにも寝顔が美しくて、つい本音が漏れたのだ。
「あの一言で、俺の理性は吹き飛んだ。だが、もし今『実は起きていた』と明かせば、恥ずかしがるお前は二度と俺に近づいてくれなくなると思った。……だから翌晩も、その次の晩も、お前に頭を撫でてもらうためだけに、五分で眠りに落ちる演技を続けた」
「ま、待ってください……っ! じゃあ、二日目から私が毎晩言っていたことも、全部……!?」
「ああ。一晩たりとも欠かさず、すべて聞いていた」
私は両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込みたくなった。
千九十四日間の記憶が、猛烈な勢いで脳裏を駆け巡る。
髪を梳かした時に彼の長いまつ毛がぴくりと震えていたのは、夢を見ていたのではなく、飛び起きそうになるのを必死で堪えていたから!
半年前に私が風邪をひいてお茶を届けられなかった翌朝、彼が氷点下の不機嫌さだったのは、お茶が飲めなかったからではなく、毎晩の『頭なでなで』がお預けになったから!
「う、嘘です……っ! だって、セオドア様は毎朝、目の下に隈を作っていらっしゃったではありませんか! あれは不眠症のせいではなくて……!?」
私が涙目で抗議すると、セオドア様はたまらずといった様子で私の肩口に顔を埋め、熱っぽい吐息とともに低く唸るように呟いた。
「……お前が毎晩、俺の髪を撫でて『大好きですよ、セオドア様』と甘く囁いて出ていくせいでな。心臓がうるさくて、その後本当に朝まで一睡もできなくなったんだ。……責任を取って、今夜からは起きている俺に言え」
耳元をくすぐるそのあまりにも甘い声に、私の心臓までが、今夜は朝まで眠れそうにないほど大きく跳ねたのだった。




