8.ライト
アロンの腕の中で、
子犬が急に身をよじらせた。
小さな身体が、不安定に暴れる。
「……どうした?」
声をかけても、子犬は落ち着かない。
アロンは立ち止まり、ゆっくりと地面に下ろした。
子犬は迷わず川辺へ向かう。
短い脚で、よろけながら。
そして、水を舐め始めた。
夢中で。必死に。
「ああ……」
アロンはそこで初めて気づく。
喉が渇いていたのは、自分だけじゃなかった。
川の水は冷たい。
澄んでいる。
流れは昨日よりも穏やかだ。
アロンもしゃがみ込み、手ですくって口に含む。
今度は吐き出さない。
子犬は水を飲み終えると、自然にアロンの横に来る。
もう抱き上げる必要はなかった。
二つの足で歩き出す。
それぞれの速さで。
地面には雨の名残が残っている。
葉の先の滴。石に溜まった水。
小さな世界が無数に光っている。
アロンは立ち止まり、それを眺める。
空気が違う。
湿っているが、重くない。
冷たいが、澄んでいる。
「……雨のあと、だな」
言葉はあとからついてきただけだった。
川は流れている。
同じ場所を二度と通らない。
アロンと子犬はその横を歩く。
急がず。遅れず。
同じ朝。
マリアンたちは歩いていた。
会話がある。
笑い声がある。
誰かがぬかるみに足を取られる。
転ぶ。
次の瞬間、別の誰かも転ぶ。
気づけば全員、泥だらけ。
一瞬の沈黙。
それから誰かが吹き出す。
「ひどい格好ね」
「最悪だ」
「でも……」
笑いが広がる。
汚れた服。濡れた靴。
それでも楽しかった。
マリアンはその光景を見て思う。
これが“一緒に歩く”ということか。
誰も最適解を探していない。
誰も評価されていない。
ただ前に進んでいる。
同じ朝。
ノーマは足を止める頻度が増えていた。
疲労が完全には抜けていない。
「……休む」
短く指示を出す。
誰も反論しない。
全員、限界が近いことを理解している。
ノーマは罠を仕掛ける。
簡易的だが、効率はいい。
しばらくして鳥がかかる。
無駄な動きはない。
命を食料へと変える。
火を起こし、分け合う。
誰かが言う。
「……助かるな」
ノーマは頷くだけだった。
彼は知っている。
これは余裕ではない。
遅れを取り戻すための必死な調整だ。
雨音の中で、
アロンはゆっくりとリュックを下ろした。
指先が布の感触を探す。
タオル。
取り出して、子犬の身体を包む。
濡れた毛が少しずつ水を吸われていく。
子犬は抵抗しない。
されるがまま、されることを受け入れている。
「……寒いよな」
声は小さい。
返事はない。
それでもアロンは手を止めなかった。
ふと頭の奥で何かが引っかかる。
リュックの底。
指が硬いものに触れた。
――マッチ。
一瞬、迷う。
湿っているかもしれない。失敗するかもしれない。
それでも、やらない理由はなかった。
岩影の奥。
雨が届いていない場所。
指で掻き分けると、
乾いた枯れ草がわずかに残っていた。
十分ではない。
だが、ゼロではない。
アロンは慎重にマッチを擦る。
一度。二度。
三度目で小さな火が生まれた。
息を殺す。
枯れ草に火を移す。
ぱち、と音がして、橙色の光が揺れる。
熱。確かな熱。
岩影の中に、生の証明が灯る。
子犬の体がわずかに動いた。
鼻先が火の方を向く。
それだけで十分だった。
同じ雨の下。
ノーマのグループでは空気が変わっていた。
沈黙ではない。ざわめきでもない。
苛立ち。
「このまま進むのは間違いだ」
誰かが言う。
「根拠は?」
ノーマが返す。
「根拠がないから、だ」
言葉が鋭くなる。
計算。合理性。最適解。
それらが空腹によって歪み始めている。
「止まるべきだった」
「止まる=停滞だ」
「停滞は死だろ」
「それは仮定だ」
声が重なる。
誰かが木の幹を叩く。
痛みを怒りに変えるために。
ノーマは全員を見渡す。
彼らの目は鋭い。
だが、余裕がない。
判断は正しかったか。
その問いが初めてノーマ自身にも刺さる。
答えは、まだ出ない。
だが時間だけが奪われていく。
別の場所。
ヴィンたちは音に気づいた。
低い振動。金属音。
「列車だ!」
誰かが叫ぶ。
考える前に身体が動いた。
走る。
ぬかるんだ地面。滑る。転ぶ。
それでも走る。
視界の先に動く影。
列車。確かに動いている。
「行け!」
跳ぶ。
手が宙を掴む。
一瞬、空振る。
次の瞬間――
掴まれた。
マリアンの腕。
強く、迷いなく。引き上げる。
次々と手が伸びる。
掴む。引く。倒れ込む。
列車は止まらない。
それでも、乗った。
息を切らしながら床に座り込む。
誰かが笑う。誰かが震える。
生きている。
その頃。
ノーマは木の下で雨を見ていた。
滴が地面を打つ。
同じ場所。同じ景色。
だが、何も進まない。
天才たちにとって、
動かないということは死と同義だった。
考え続けるには環境が必要だ。
刺激が必要だ。
停滞は思考を腐らせる。
列車は動くかどうか分からない。
だが、待つより動いた方がいい。
ノーマは静かに言う。
「……行く」
誰も反論しない。
エネルギーはもう残っていなかった。
再び歩き出す。
正しいかはまだ分からない。
だが選択はした。
同じ雨。同じ森。
岩影の中、火はまだ揺れている。
アロンは子犬を抱き、火を見ている。
計画はない。ゴールもない。
ただ今を、生かしている。




