7.御中
雨が、本降りになった。
音が変わる。葉を叩く音が、地面を打つ音に変わり、森全体が、低く唸り始める。
アロンは、空を見上げてから、子犬を見る。
子犬は震えている。鳴かない。鳴く力が、もう残っていない。
アロンは、抱き上げた。
軽い。驚くほど軽い。
骨の感触が、掌に、はっきりと伝わる。
「……大丈夫だ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
近くに、人が一人入れるほどの岩影があった。
奥行きは浅い。だが、雨は直接入ってこない。
アロンは、そこに身を滑り込ませ、子犬を胸に引き寄せる。
背中を丸める。自分が壁になる。
雨が、視界の外で、激しく落ちる。
岩影の中は、暗い。
湿った土の匂い。石の冷たさ。
だが、子犬の体温が、わずかに伝わってくる。
生きている。
アロンは、自分の腕が震えていることに気づく。
寒さなのか、恐怖なのか。
分からない。
ただ、落としたら、終わる。
それだけが、はっきりしていた。
同じ雨の中。
ノーマの進路は、川と見分けがつかなくなっていた。
水が、地面を覆っている。
流れは弱い。だが、足元が見えない。
「進めない」
誰かが言う。
ノーマは、一歩、踏み出しかけて止まった。
冷たい水が、靴の中に入る。
体温が、奪われる。
「引き返す」
判断は、即座だった。
だが、戻る道も、同じように濡れている。
雨は止まない。風が出てきた。
体が冷える。
指先の感覚が、少しずつ鈍くなる。
思考速度が、わずかに落ちる。
休める場所を探す。
岩陰。洞。倒木。
――どれも、ない。
歩く。
歩き続ける。
それしか選択肢がなかった。
やがて、一本の大木が見えてくる。
根が張り出し、幹が太い。
葉が重なり、根元だけ雨が弱い。
「ここだ」
誰かが言う。
全員が、ほとんど無言で、その下に集まる。
雨は完全には防げない。
だが、直接打たれるよりはましだ。
体温低下は止まらない。
ただ、速度が落ちただけ。
ノーマは、それを理解している。
だが、代案はない。
今は、耐えるしかない。
別の場所。
ヴィンの洞では、雨音が外界を遮断していた。
洞の中は暗いが乾いている。
彼らは、初めて腰を下ろしていた。
「話すべきだ」
ヴィンが言う。
「食料」「経路」「ゴール」
順番に、短く。
食料は限られている。
消費量は想定より多い。
雨で行動効率が落ちている。
経路は不確定要素が増えた。
地形。天候。視界。
計算は更新が必要だった。
ゴール。
それだけが、誰もすぐに口にしなかった。
「……列車だ」
誰かが言う。
「合流できれば資源がある」
「だが距離がある」
「リスクが高い」
議論は静かだが、確実に割れていく。
ヴィンはそれを止めない。
合意よりも、各自が納得することを、今は優先していた。
そして。
マリアンたちのいる列車。
整備ランプが消える。
低い振動が床から伝わる。
エンジン音。
ゆっくりと、だが確実に、列車が動き出す。
雨に打たれながら、鉄の塊が進む。
レールの上。
迷いはない。
目的地は決まっている。
車内で誰かが言う。
「……動いた」
それは安堵でもあり、取り残される可能性の通知でもあった。
同じ雨。同じ森。
だが。
アロンは岩影で子犬を抱きしめている。
動かない。計画もない。
ただ命を受け止めている。
ノーマは冷えながら耐えている。
ヴィンは暗闇で選択肢を並べている。
マリアンは動き出した世界に身を乗せている。
雨は誰にも平等に降る。
だが、奪うものは同じではない。




