6.パルモ
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崖の下は、思ったよりも静かだった。
風は弱く、音が吸い込まれるような場所。
アロンは、しばらく歩いてから、それに気づいた。
――音が、違う。
小さく、掠れた音。鳴き声とも、呼吸音ともつかない。
足を止める。
耳を澄ます。
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岩陰に、子犬がいた。
毛は濡れていない。だが、立ち上がれない。
腹部が、異様に細い。肋骨が、はっきりと浮いている。
目だけが、こちらを見ていた。
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アロンの思考が、止まる。
判断が、出てこない。
敵か、味方か。危険か、安全か。
――どれも、当てはまらない。
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「……」
声が出ない。
近づく。子犬は、逃げない。
逃げる力が、残っていない。
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生きている。
だが、このままなら、死ぬ。
それだけは分かる。
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どうやって助ければいいのか、分からなかった。
抱く? 水? 運ぶ?
どれも、“今の自分”には無理だと、体が先に理解していた。
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アロンは、地面に生えていた木苺を見つける。
赤い。小さい。潰れやすい。
それを一粒、摘む。
考えずに、子犬の鼻先に差し出した。
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子犬は、すぐには反応しなかった。
だが、 鼻が、わずかに動く。
匂いを嗅いでいる。
生きている。
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舌が、伸びる。
弱々しく、木苺に触れる。
一口。
それだけで、子犬の喉が、小さく動いた。
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アロンは、そこで初めて気づく。
――自分は、助け方を知らない。
――でも、“死なせない方法”なら、今、ここにある。
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正解でもない。効率でもない。
ただ、手が届くことをやっただけ。
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空が、暗くなる。
雨の匂いが、森に落ちてくる。
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同じ頃。
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ノーマの上に、雨が落ち始めていた。
細かい。冷たい。
だが、彼は歩みを止めない。
「進める」
川は増水する。だが、それは予測済み。
今、止まる理由はない。
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「この程度なら、問題ない」
濡れることも、体温が下がることも、計算に含まれている。
仲間たちも、続く。
疑問は、出ない。
判断は、共有されている。
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ヴィンは、違った。
彼は、木の根元に空いた洞を見つけていた。
雨脚を見て、即座に判断する。
「ここで待つ」
濡れれば、消耗が増える。
視界が悪くなる。
判断精度が下がる。
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洞の中は暗い。だが、乾いている。
彼は、動かない。
「嵐は、長くない」
それが、最適解だった。
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マリアンは、列車に戻っていた。
残った天才たちと合流し、貨物車両の中へ入る。
鉄の壁。屋根。
雨音が、外側で、はっきりと鳴る。
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「分断は避ける」
彼女の判断は、個ではなく、群だった。
ここには、まだ資源がある。
人も、思考も。
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三つの場所で、雨が降る。
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進み続ける者。
止まる者。
戻る者。
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崖の下で。
アロンは、濡れ始めた地面に座り込んでいた。
子犬は、木苺をもう一粒、舐める。
それだけで、呼吸が、わずかに安定する。
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雨が降っている。
寒い。腹も減っている。
それでも、アロンは動かない。
動けないのではない。
――ここを離れたら、この命は終わる。
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思考は、まだ止まったままだ。
計画もない。未来もない。
ただ、目の前で生きているものがいる。
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世界は、判断を求めてこない。
だが、存在は、問い続けている。
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雨音の中で。
アロンは、初めて気づき始めていた。
生と死は、選択の結果ではなく、
関わった瞬間に、もう始まっている。
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