祖父の合図
夏に爪を切る音を聞くと蛍狩りを思い出す。
一緒に暮らす部屋。外の暑さに負けないようにクーラーがガンガンに効いた部屋。
お風呂上がり。パチンパチンと手の爪を切る彼女の横で何気なくそう呟くとその手が止まった。
「どういうこと?」
「あ、ごめん、続けて?」
「うん、続けるけど、聞きたい」
興味津々のキラキラした目でこちらを見つめてくる。
僕は小さく笑う。
「大した話じゃないんだけど……」
僕は話し始める。
幼い頃の祖父との思い出を。
小学生の頃、夏休みになると田舎にある母方の祖父の家に預けられていた。
僕の両親は共働きで。今思うとまあ、ずっと家にいる僕が邪魔だったんだろうなと思う。
僕が生まれるずっと前に祖母は亡くなっていて、祖父は一人で暮らしていた。
無口な人で孫の僕が来たからといって特別扱いすることもなく。
朝食は玉ねぎのお味噌汁に玉子焼きに白ご飯。お昼はおかかの三角おむすび。夜は焼き魚にジャガイモのお味噌汁に白ご飯。
それが一人分増えるだけ。
いつもの生活が+1になっただけって感じだった。
僕にとっては気を遣われないその空気が逆に心地よかった。
ただ、1日だけ。
1日だけ特別な日があった。
パチンパチン。
祖父は縁側で爪を切った。
僕はそわそわと後ろからその姿を見守った。
風のない、じめじめとした曇り空の日。
祖父は縁側で手の爪を切っていた。
僕は知っていた。
それは蛍狩りの合図だと。
「行くか」
夜19時30分。
いつもの夕食を食べると祖父は短くそう言って玄関を出た。
「うん」
僕はうなずくと靴を履いて外に出た。
祖父はこちらに右手を差し出しながら僕を待っていた。
僕はその手をぎゅっと握った。
懐中電灯片手に田舎の畦道を祖父と歩く。
危なくないようにしっかりと握られた手。
祖父がこんな風に僕の手を握ってくれるのはその時だけだった。
僕にあわせてゆっくりと歩く祖父。
会話は何もない。
僕たちの間には夏の田んぼの音がただ響いていた。
目的地に着くと祖父が懐中電灯の光を消す。
まっ暗。
その中で灯るものがあった。
点滅する無数の光。
それがふわりふわりと宙を舞う。
蛍。
蛍の光に照らされた祖父が僕の手を離す。
伸ばされる両手。
近寄ってきた蛍がその手の中に入る。
幾度か光り、祖父は優しくその子を放つ。
僕は黙ってその光景を見つめていた。
月も星も出ていない。
光の主役は蛍だった。
灯らなくなるとまた祖父が僕の手を握る。
そして、僕らはお家に帰る。
帰り道も言葉はない。
ただ夏の田んぼの音と祖父の手の温もりがあるだけだった。
「へ~、素敵なお話」
キラキラした目を細めて彼女は笑う。
僕は嬉しさと照れくささが混じったような気持ちで微笑む。
「おじいちゃんのお家ってどこにあるの? 私も同じ景色を見てみたい」
「ん~、ごめん、今はね、見れないんだ……」
「え、どうして?」
「いなくなっちゃったから……」
鈍い痛みと共に苦く笑いながら僕は話の続きを語り出す。
小学6年生の夏休みだった。
風のない、じめじめとした曇り空の日。
いつもの通り、祖父は縁側で手の爪を切り、僕たちは手をつなぎながらあの場所に向かった。
相変わらず僕たちの間に会話はなく、夏の田んぼの音がしていた。
目的地に着くと祖父は懐中電灯を消した。
まっ暗、なはずなのに鋭い光が辺りを照らした。
車のヘッドライト。
騒がしい声と幾つもの光。
蛍狩りの場所として有名になってから、蛍以外の光の主役が現れるようになった。
人工の光に照らされた祖父が僕の手を離す。
伸ばされる両手。
そこには何も飛んでこない。
蛍の姿はどこにもなかった。
「え〜、せっかく来たのに何もいないじゃん」
残念がる声が辺りに響く。
祖父はしばらくぼうっと宙を見つめると僕の手を握った。
歩き出す。
ぎゅっと手を握られながら僕は祖父にあわせて歩いた。
祖父の無言を苦痛だと思ったことは一度もなかった。
ただ、その時は何かを話さなければと思っていた。
「おじいちゃん……」
口を開くと祖父の息を吸う音がした。
こぼれ出したのは返事ではなく──歌声だった。
それは僕がよく知っているメロディで。僕のよく知っているあの歌だった。
祖父は小さく乞うように「ほたるこい」と歌った。
それは誰への願いだったのだろう。
祖父の歌声を聴いたのはそれが最初で最後だった。
「蛍、いなくなっちゃったの?」
「うん、祖父と過ごす夏休みもそれが最後になっちゃった」
翌年の春。祖父は亡くなった。
蛍のいなくなった夏休みが祖父との最後の思い出になってしまった。
「そうなんだ……」
しょんぼりする彼女に僕は笑いかける。
「ごめんね、悲しい話で。続けて?」
「うん……」
彼女はしょんぼりしたまま、また手の爪を切り始める。
パチン、パチン。
「……おじいちゃん、大切だから爪を切ってたのかな」
「え?」
ポツリと呟いた彼女の言葉に僕が聞き返す。
指先を見つめながら彼女は続ける。
「蛍もあなたも傷付けたくないから爪を切ってたのかもね」
「…………」
その言葉がじんわりと心に染みていく。
夏に爪を切る音を聞くと蛍狩りを思い出す。
それはただの合図ではなく、祖父の思いやりだったのだろうか。
いなくなった今となっては尋ねることは出来ないけれど。
「うん、そうかもね……」
そうならばいいと僕も思った。