66話「突然のスカウト」
うだるような暑さが続く夏のオフィス。新入社員の渚と橘もすっかり部署に慣れ、それぞれの日常を送っていた。橘は相変わらず田中の「パードゥン」現象に怯え、渚はそれを熱心に観察する日々だ。
そんなある日の午後、部署の奥に置かれた古びた巨大な書類棚が、なぜか動かなくなってしまった。重すぎてびくともせず、社員たちが何人かで押しても引いても動かない。部長が「こんなもの、さっさとどかせ!」と苛立ちを募らせる中、田中も手伝おうと棚に手をかけた。しかし、どれだけ力を入れても、棚は微動だにしない。
(くっ……こんなもの一つ動かせないなんて……!)
自分の非力さと、どうにもならない状況へのもどかしさが、田中の心臓にずっしりと響き始めた。
「パードゥン…?」
その瞬間、ドォォォォォン!と微かな地響きがオフィスを揺らし、田中はパードゥン田中へと変貌した。彼の巨大な体がオフィスを突き破り、ビルを突き抜けて青い空にそびえ立つ。
オフィス中の社員が悲鳴を上げ、混乱する中、パードゥン田中は、動かない書類棚に巨大な指をそっと触れた!
「移動? とんでもない! 最高の配置を、今ここに!」
パードゥン田中が書類棚に触れると、棚はまるで紙細工のように軽々と持ち上がり、そのままオフィスの壁を突き破って、隣の空きフロアへと移動してしまった! 壁には書類棚の形をした巨大な穴がぽっかりと開き、そこから隣のフロアの様子が丸見えになる。さらに、彼の力の余波で、オフィス中の全ての家具や備品が、なぜか社員が最も効率的に動けるような「最適配置」へと勝手に移動し始めた。椅子は勝手に回転し、デスクはスライドし、パソコンは宙に浮いてベストな角度で固定される。オフィス全体が、まるで未来の「超効率動線オフィス」のように機能的で動線が完璧な場所へと変貌したのだ。
しかし、その最適配置は過剰だった。椅子は社員が座ろうとすると勝手に回転して座らせてくれず、デスクはスライドしすぎて壁に激突し、パソコンは宙に浮いたものの、なぜか社員の顔の真正面に固定され、モニターが視界を完全に遮ってしまう。そして、壁に開いた巨大な穴からは、隣のフロアの社員たちが、何が起こったのか理解できずに呆然とこちらを見ていた。
「田中くん! 何やってるの!」
異変に気づいた斎藤さんが駆けつけた。彼女はアクロバティックに宙に浮いたパソコンの下をくぐり抜け、勝手に回転する椅子を飛び越え、パードゥン田中の巨大な指先へと飛び乗った。
「斎藤さんか! これもまた、空間の最適化だ! 究極のオフィス環境を創造するのだ!」
「最適化はいいけど、壁を破壊したり、社員の視界を遮ったり、みんなを混乱させちゃダメでしょ! 宇宙拳・空間修復!」
斎藤さんはパードゥン田中の巨大な指の上で身を翻し、指先に向かって流れるような拳法の動きでエネルギーを集中させ、書類棚を元の位置に戻し、壁の穴を瞬時に修復した。勝手に動く家具や宙に浮いたパソコンも元の状態に戻る。
田中の体が元のサイズに戻り、彼は自分が何をしていたのか覚えておらず、ただ斎藤さんの顔をきょとんと見つめていた。オフィスは元の状態に戻り、書類棚も元の場所にある。
「さ、斎藤さん…私、また…」
「まったく、ハラハラさせるんだから。でも、おかげで書類棚は動いたわね。それに、壁も直ったし。」
斎藤さんは呆れたように微笑んだ。田中は自分がまた騒ぎを起こしたことにしょんぼりするが、斎藤さんが自分のことを見てくれていることに、どこか安堵感を覚える。
その時、オフィスの入り口に、一人の男が立っていた。全身が筋肉の塊のような大柄な体格で、鋭い眼光を放つ男だ。彼は、壁の穴が修復されていく光景と、田中が巨大化から戻る瞬間を、ただ一人、呆然と見つめていた。男は、この街で開催される総合格闘技大会「アース・インパクト・トーナメント」のスカウト、ゴウダだった。彼は、たまたまこのビルにスポンサーの打ち合わせで来ていたのだが、まさかこんな光景に出くわすとは。
ゴウダは、ゆっくりと田中に近づいていく。
「おい、あんた……。今、何が起こったか、説明してもらえるか?」
田中はきょとんとした顔で首を傾げる。斎藤さんが警戒するようにゴウダを見つめた。
この一連の騒動中、渚は目を輝かせながら全ての出来事を手帳に記録していた。壁が破壊され、家具が動き、パソコンが宙に浮く光景は、彼女にとって最高の研究材料だ。手帳には「田中の能力、物理空間を歪める?」「斎藤さん、壁も修復可能?」といったメモに加え、最後に斎藤さんと田中が顔を見合わせ、呆れたように笑い合う姿を、そっとスケッチしていた。彼らの間に流れる、誰も理解できない絆の正体を突き止めるべく、彼女の探求心は燃え盛るばかりだった。
一方、橘は、書類棚が壁を突き破って移動した際、その衝撃でデスクごと壁に押し付けられ、身動きが取れなくなっていた。斎藤さんが能力を修正した後も、彼はデスクと壁の間に挟まったまま、青い顔で震えていた。
「う、うわあああああ!俺は……俺はもうダメだ……!この会社、本当に魔境だあああああ!」
彼は田中を見るたびに、本能的な恐怖と、この会社にいる限り避けられないであろう奇妙な運命を感じていた。恐怖のあまり、無意識のうちに自分のデスクを田中から一番遠い壁際に移動させていた。彼の被害妄想は募るばかりで、彼にとってこの会社は、もはや「奇妙な出来事が日常的に起こる魔境」と化していた。彼はその日、会社を辞めるべきか否か、真剣に悩んだのだった。しかし、結局のところ、彼は好奇心と、田中という強烈なライバルの存在、そして何より斎藤さんの手際の良さに、引き止められていることをまだ知らない。




