護法童子は秋晴れの雲の上に
泣きった人は晴れ晴れとした顔をする。あらゆる感情を絞り出した後、心身に残るのは乾いた秋晴れのような諦観なのだろう。棺を覗いてお別れを済ませていく親族を見ながら絢子は思った。
晴れ晴れとした顔が並ぶ中、忙しない人がいる。世話焼きの伯母はお別れの順を仁王立ちで監督している。三十人程の親族を内戚と外戚に分け、さらに年の順に頭の中で並べているようだ。目線だけで指示を出している。
勝手知ったる還暦越え達は、自ら進み出る前に「合っていますか?」と伯母へ目線で問いかける。伯母はそれらの問いかけに対して「良くできました」とばかりに目礼を返す。
還暦越えには容易いやり取りも、初老にはやや難しい。場の空気を読まない者には殊更難しい。絢子の姉が気ままに半歩進み出たのを見逃さず、伯母は片手を挙げて姉を退かせた。
珠子伯母のおかげで、ここでも秩序が守られる。こりゃ大層有難い。そう思った絢子はおもわず鼻で笑い、母親に睨まれてしまった。絢子の母は、義理の姉である伯母を嫌っているが、同じくらいの熱量で崇拝もしている。
お別れを済ませた棺を先頭に、最後の場所へと移動する。棺はレールに乗せられ、白く小さな部屋に運ばれていく。金属製の分厚い扉が閉じていく中、親族は頭を垂れて合掌する。この姿勢で絢子はありがとう、を呪いのように繰り返した。
扉が完全に閉じ、係員がボタンを押す。しばらくすると、係員は慇懃な物言いで解散が告げた。合わせていた手を開き、頭を上げた親族は、三々五々に散っていく。絢子は母親に目配せをすると、出口に向かった。
自動扉を出た絢子は、喫煙所を探して周囲を見渡した。絢子の目に眩しい光が飛び込んでくる。銀色の灰皿に太陽光が乱反射している。絢子は目を細めながら喫煙所に近付いた。出口に背を向けたまま、黒のハンドバッグからタバコを取り出すと、中身を見て息をつく。
中身が空になっていることを失念する位には、動揺していたらしい。空のタバコを片手で握りつぶす。ついでに買い出しでも、と思い立ち絢子は建物の中に戻っていった。
遥かな天空に浮かぶ雲の上、護法童子は目を閉じていた。秋の陽光は童子の甲羅をじわりじわりと温め微睡みへと誘う。首の下で腕を組み、頭を乗せるとふうっと脱力した。
童子が眠りに落ちる寸前、澄んだ鈴の音が遠くに聞こえた。童子はゆっくり首を持ち上げた。童子が音のする方を見やると、雲に開いた穴から白く輝く帯が顔を出している。帯はゆるゆると螺旋を描きながら、上へ上へと昇っていく。
雲上に住まう童子にとって、鈴の音を聞くこと、白い帯を見ることは、珍しいことでない。けれど、涼やかな音色、眩いばかりの白色に出くわすことは稀だった。童子は甲羅にしまっていた短い二本の足を出した。前傾姿勢で体を伸ばすと、穴の方へゆっくりと歩いた。護法童子は急ぐことなく進む。美しい帯は長く長く続くことを知っていたから。
童子は穴の傍に腰を下ろすと、再び腕を組み、頭を乗せた。目を凝らして帯を見た。近付いてみると、白い帯には、精緻な意匠が散りばめられている。極彩色で描かれた絵巻物のようだった。童子は絵巻の意匠を一つ一つ丁寧に、物語を紐解くように見た。
白い朝霜の中、乳飲み子を幼女が背負って歩いている。麦畑へ続くあぜ道を歩いている。麦を踏みにいくのだろう。幼女の行く先に、麦の若葉が揺れている。
絵巻は豊かな緑で彩られる。蚕を飼っているのだろう、少女は畑で桑の葉を摘んでいる。刃物をはめた少女の指がきらりと光る。少女は木々を縫うように進んでいく。
絵巻は青く高く輝く。晴天の中を花嫁行列がゆく。白無垢姿の花嫁は、その瑞々しい頬を桃色に染めている。幸せになりますように、と願うように進んでいるのだろうか。
絵巻は紫に染まる。天からの祝福を一身に受け、赤子が生まれた。湯気をまとった赤子を、若い女が見つめている。その頬を涙が伝っている。
黒い牛が列を成して歩いていく。女の生業は牛飼いなのだろう。幾百、幾千、幾万の黒い牛が数珠つなぎに歩いていく。黒い牛たちは雲の向こうに消えていく。
続いて、黒い列車が走り来て走り去り、走り来て走り去る。女の生んだ息子らが故郷を去ったのだろうか。日に焼けた女は駅に佇んでいた。女の黒い影が、夕日を浴びて線路に伸びている。
金色の稲穂が揺れ、絵巻は煌めく。田畑に挟まれた細い道を銀色の軽自動車が走る。女は皺の増えた手でハンドルを握っている。老いた姑を預けているのだろう。女は灰色の建物に向かっている。
絵巻に仄明かりが灯る。竹竿に提灯が提げられている。先に逝った夫の新盆なのだろう。竹竿の両端を成長した孫が二人で担いでいる。行き道は暗いままの提灯も、帰り道は明かりを灯している。
薄暗い部屋で腰の曲がった老女が微かに震えている。皮膚の垂れた耳に受話器を押し付けて。それぞれの土地に根付いた息子らは、この地に戻ることはないのだろう。受話器を置いた後も老女はしばらく動かなかった。
絵巻は午後の優しい陽光で満たされる。縁側に置かれた籠の中には、赤色桃色橙色、黄緑色に、群青色も。色とりどりの毛糸玉が詰まっている。籐の椅子に座った老婆は、せっせと編み目をこしらえている。この手慰みが老婆に残された仕事なのだろう。
絵巻物から色彩が消え始めた。色とは反比例するように輝きが増していく。護法童子は、絵巻物の終わりが近いことを悟る。美しい絵巻であった、童子は胸中で繰り返す。童子は、のそりと雲に開いた穴に近づいた。首を伸ばして穴から顔を出し、感慨を込めて覗き込んだ。
地上の彼方に、木箱に納められた老婆がいた。老婆は彼女の愛した毛糸のような色彩で囲まれている。その木箱を、老若男女が代わる代わる覗いている。感謝、親愛、そして惜別を告げているのだろう。そう思うと、童子の感慨はより深くなった。
鈴の音は澄み渡り、空に溶けていく。絵巻物も、もはや地上から昇って来ない。雲上の帯は、長い尾を引いて空の彼方へ消えていった。
童子は姿勢を戻すと、穴の傍で四肢と顔を甲羅に納めた。薄暗い殻の中、童子は感慨の余韻に浸る。早々に甲羅の中から小さな寝息が聞こえ始めた。
「あやちゃんどうしたの?」
赤い車の運転席に座って俯いたまま絢子は動かない。その顔を少女が不思議そうに覗いている。
絢子が買い出しに行くと母親に伝えると、暇を持て余した姪っ子を押し付けられた。姪っ子を連れて駐車場へと向かう。よほど退屈していたのか、姪っ子の足取りは軽やかだ。姪っ子は手を繋いだまま前を歩く。絢子は彼女に引き摺られるようにして歩いた。
姪っ子を助手席側へ回らせて、スマートキーを押す。音がなった瞬間、姪っ子は意気揚々と車に乗り込んだ。絢子も扉に手を掛ける。ふと、呼ばれた気がして、絢子は出てきたばかりの建物を見上げた。そこには見えるはずのない白い煙があった。
白い煙はゆるゆると空を昇っていく。絢子の目頭が自然と熱くなった。絢子は乱暴に扉を開けて運転席に座った。俯いたまま頭を振り、目を閉じて心を落ち着かせる。
姪が声を掛けたのは、そんな時だった。
「あやちゃん、大丈夫?どこか痛いの?」
絢子の返事がないので、姪っ子は言い募った。
「大丈夫、何ともないから」
姪っ子の不安そうな相槌に、絢子も言葉を重ねた。
「ちょっと、びっくりしちゃっただけだから」
絢子は顔を上げて姪っ子を見た。使い慣れた曖昧な微笑みを貼り付ける。絢子の表情をみて安心したのか、姪っ子は小刻みに頷いている。姉譲りの真っすぐな黒髪が、さらさらと姪の肩から落ちていく。
絢子が車のエンジンをかけようとすると、姪っ子が眉をひそめた。
「あやちゃん?鈴みたいな音がしない?」
姪っ子は訝しんで車の中を見渡している。鈴のような音には、絢子も心当たりがある。
「両手で耳をふさいでごらん」
絢子は努めて落ち着いた声音を出した。すぐさま、姪っ子は小さな掌で両耳をふさいだ。そして、眉間の皺を深めて首を振る。
「耳をふさいでも頭の中に聞こえるよ」
「ねえ、これ何?」
姪っ子が恐々とこちらを向いている。初々しい様子に堪え切れず、絢子は鼻で笑ってしまう。
「そういうもんよ」
ぶっきらぼうに言うと、絢子は車のエンジンをかけた。車の四つの窓を全開にする。今日はからりとした秋晴れだ。しばらく車を走らせれば空気は入れ替わる。姪っ子の気分も変わるだろう。
「まだ聞こえるよ~」
姪っ子は泣き出しそうな声を出している。絢子はもう一度鼻で笑った。
「そのうち消えるから」
絢子はウインカーを出しながら適当なことを言う。姪っ子が天を仰いだ気配が伝わってきた。絢子はアクセルを踏んだ。
6月12日23時:初稿