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探偵は御簾の中  作者: 汀こるもの
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羽衣天女

『鳴かぬ螢が身を焦がす』発売記念SS第3弾。

 先週とは打って変わってほのぼの親子。『鳴かぬ螢が身を焦がす』に子供の出番が少ないのでここでフォローするという雑な配慮。なら二郎も出せよ。いや二郎抱いてると動作に制限がかかるので……

 ――昔むかし近江の湖で、天女が羽衣を脱いで水浴びをしておりました。それを土地の猟師がこっそり見ていました。猟師は天女を好きになって羽衣を隠してしまいました。羽衣がなければ天に戻れません。嘆き悲しむ天女を、猟師は自分の家に連れ帰って妻にしました。猟師と妻の間には男の子が二人、女の子が二人産まれました。しかしある日、妻は隠されていた羽衣を見つけてしまいます。羽衣をまとった妻は天女に戻り、たちまち天上に帰ってしまいました。妻を失った猟師は嘆き悲しみました。天女の四人の子らはその地を治める豪族になったと言います――


 子らがせがむので皆で忍のおとぎ話を聞いていたが、これを妻の口から聞くと不穏なものがあった。


「お母さまも羽衣を見つけたら天に帰ってしまうの?」


 案の定、四歳の姫が不安そうな声を上げた。忍はといえばもう満面の笑みだ。


「残念ながらお母さまは人の子よ。御家のご縁でお父さまと結婚したから、お父さまが嫌になったら牛車でお祖父さまお祖母さまの家に帰るだけよ」

「帰っちゃやだ!」

「まあまあ。そのときは太郎も姫も一緒に行きましょうね」


 太郎と姫が両の膝にすがりついてくるので忍は上機嫌で二人の頭を撫でていた。――非常に不遜な態度だ。夫を挑発している。とはいえ祐高も、子らの前で真面目に怒ったりはしない。


「帰ったりしないと言わないのか」

「あなた次第ね。わたしの羽衣を隠しているの?」

「そんなものあるのかな」

「捜してみましょうか」


 忍が不敵にほくそ笑むと、子供ばかりが真に受けて六歳の太郎が膝を揺する。


「やーだー、お母さま帰っちゃやだー」

「忍さま、子らを脅かすのはよくない。やめなさい」

「はーい。大丈夫よ太郎、姫、これは夫婦の駆け引きというものよ」


 子にそんなことを言うか、普通。


「お前たちを産んだときはとても痛かったのだから捨てたりなんかするものですか。お前たちからもお父さまにお母さまを大事にするよう言いなさい」

「わたしのことは脅し続けるのか」

「女の生きるすべですもの。特に姫はわたしと一緒にいないと、女の子を育てられるのは母親だから」


 忍が姫の髪ばかり撫でているので太郎はいよいよ忍の胴にしがみついた。


「太郎も、太郎もお母さまと一緒にいるー」

「忍さま」

「太郎は甘えん坊さんねえ。この身を裂くように痛かったのに、どうして捨てられるものですか」


 忍は暢気に抱き留めて背中を撫でてやる。


「お母さま、この間までおなかが大きかったのにしぼんでいるのはおなかが割れて二郎が出てきたの? 血が出たの?」

「はらわたが張り裂けるようで血も出たけれど、お腹が割れたわけではないわねえ。頑張ってひり出したの。中で二郎が跳ねて臓腑を蹴るのがつらくて」

「どうやって二郎はお母さまのおなかに入っていたの?」


 姫の素朴な疑問に、どう答えるのか祐高は少し焦ったが、忍は慌てもしなかった。


「小さな芽のようなものが女君のお腹の中に生えてきて、十月十日かけて大きくなってやや子になるのよ」

「おなかの中に生えてくる?」

「男君が女君と物語して、男君の恋心が女君の身体を満たして愛に変わると芽吹いてやや子が宿るの。神仏が授けてくださるのよ」


 具体的なのも困るが、子供相手だと思って歯の浮くような。今日は一段と柄にもなく淑やかぶって。


「物語っておとぎ話? おしゃべりしているとやや子ができるの?」

「お喋りだけでは授からないわよ。姫も太郎ももう十年経ってから乳母に教わりなさい」


 この場合の〝物語〟は愛の交歓を指す直截な言葉だが、四歳と六歳にはまだ早い。


「近江の天女はきっと薄情だったのだわ。天女は天上の瑞雲や蓮の花から湧いて出てくるものよ。人の姿をしていても母に抱かれて育つのではないから、人の妻となって人のようにやや子を産むことはできても恋や愛など解さなかったのよ。四人も子を産んで置き去りにするなんてわたしには信じられない」

「信じられない、か」

「子に会うなと夫の家族に引き裂かれたような女は憐れなものよ。子のことばかり考えて泣いて」


 女と言うが忍の周囲にいるのは側仕えの女房ばかりだ。目上の男に口説かれて、正式な結婚をせず産んだ子だけ取られてしまうことが多いのだろう。


「子を置き去りにしても心の痛まぬ女は地上にもいそうなものだがな」


 祐高はぽつり、つぶやいた。


「あら、心外だわ。我が子への情を疑うなんて」


 忍のことではない。

 ――自分の母だ。



 母は祐高を乳母に任せて遠ざけていた。「男の子は怖い」が口癖だったと。今から思えば先に産まれた兄が何かやらかしていたのだろうか。妹のことは下にも置かずかわいがって片時も離れなかったと言う。

 祐高には、たまに声をかけてくれても和歌や物語の洒落た言い回しが多くて子供には全くわからない。祐高が何と返事をしたものか迷っていると、母の方ががっかりしてそこで終わってしまう。兄は口が達者でもう少し話が弾んでいるようだった。

 自分は鈍なのだろうかと何度も思った。

 結局母を喜ばせたことなどあっただろうか。

 今でも女に話しかけるのをためらう。

 そういえばいつぞや、亀の死骸を拾ったときはひどかった。あれは夜半に微行する牛車に轢かれたものだったのだろうか。

 ぺしゃんこで惨くて、見かねて庭の池の畔に埋めて上に小さな石を置いて塚のようにした。見様見真似で経文を読んで供養したつもりになった。

 別に誰に褒められたいというつもりでもなかったが、その話をすると母は小さく何とも知れない声を上げて、祐高を湯殿に入れて念入りに清めるよう乳母に指示した。その後、何日か寺に預けられて生臭を断って写経して過ごすことになった。


「恐ろしい」


 母はそうつぶやいていたようにも思う。

 ずっとこのまま寺から出してもらえず、出家させられるのかと怯えもした。

 無論そんなことはなく無事邸に戻ったが、父は。


(きたな)いものを触るな」


 こう言ったきり。

 兄と乳母一家によると、亀の塚は掘り返されて遠くに捨てられたそうだ。その頃にはもうどうでもよくなっていた。

 母は父と仲よくしていたような記憶もない。

 珍しく兄ともども呼び出されたと思ったら、どこそこに妾がいるとか父の愛が信じられないとか泣かれて困ったこともあった。そんなときだけ息子扱いされても。

 後で兄が「母上の真似」と袖で顔を覆っておどけた。失礼だと思ったが諫めて叱られるのも損だった。結局、従者の子らと一緒に笑った。笑っただけ心が痛くなった。

 母は天女のような人だったのだろう。

 羽衣を見つけ損なったので父が死んだ後もまだ地上にいて、尼姿になって今は妹夫婦の邸に住んでいる。妹はめでたく母そっくりの、もの静かで何を言っているのかわからない女になった。

 母の羽衣とは何だったのだろう。

 見つけていればよかったのに。

 それをまとえば若く気高い頃に戻って、さぞ美しく空に舞い上がっただろう。

 こちらもいっそ母のない子と思えればいくらかましだったかもしれない――



「――亀をな」


 気づいたら語り出していた。


「昔、牛車に轢かれて死んだ亀を拾って弔ったのだ、埋めて経を唱える真似などして」

「まあ。亀は万年生きると言うのに死ぬことがあるのねえ。間抜けな話だわ」

「生きものであるから。池に放っていたのが夏の頃には卵を産むのか、地上をふらふら出歩いている」

「供養してさしあげたの」


 忍は笑って祐高の肩をつついた。


「まさか祐高さま、死した亀の魂が美しい乙姫に化けて礼をしてくれると思ってらっしゃる? 天女ならぬ神女? 神代には鰐鮫が美女に化けて子をなしたと言うけれど亀もそのように? 竜宮城に招いてご馳走でもてなしてくれるの? それでわたしを嫉妬させるおつもり? 少しお考えが甘いんじゃないかしら」


 ――そんなこと考えてもなかった。

 死んだ亀は、骨の箱に入った惨たらしい肉だった。美女にはほど遠い。

 今更そんなものを忍に悼んだり拝んだりしてもらいたいわけではない。母への恨み言を聞かせたいわけでも。

 わかっていたはずなのに、どうして話してしまったのだろう――


「でも亀は縁起がよくて功徳がありそうだわ」


 忍は、祐高の中で話題が変わっていたのに気づいていないようだった。


「祐高さまが亀の背に乗って極楽往生なさるときにはわたしもご一緒するのかしら。龍や鳳凰の方が立派だけど下を見たら怖かったりするのかしら。亀ならしっかり座れて落っこちる心配がなさそうね。自分で羽衣をまとって飛ぶより楽そう」


 彼女なりに亀のいいところを探したのだろうか。空を飛ぶより楽そうとは、怠惰の極みだ。


「……小さな亀だ」

「御仏の使いだもの。祐高さまの功徳で大きくなって、黄金に輝いているのよ。甲羅の上に畳が敷いてあるといいわねえ。手すりもあると安心だわ」


 ただの小石を載せた塚だ。それも掘り返されてしまったのに。

 だがそう言われると確かに見えた――金無垢の甲羅に漆塗りの台座。畳に美しく重ねた絹の茵。二人乗りの豪奢な鞍を何なく背負った、威厳ある顔つきの幻獣が。

 亀の話には子らも興味津々だった。


「金色の亀に乗るの?」

「夢のお話よ。いつかそんな夢が見たいわ。思うだけなら自由よ」

「姫も乗る!」

「乗りたいなら乗せてあげるけど、きっと十年も経てばお父さまやお母さまと一緒は嫌になってるわ」

「ならないもん!」


 ――彼女は恐ろしげな言葉を使うが、きっと何だかんだ惨いものなど一つも見たことがないからそんなことが言えるのだ。


「亀、お池にいる。青菜をやったらもりもり食べる」

「亀って青菜を食べるの?」

「強飯も、瓜も干し魚も食べる」

「へええ。そんなに餌をやったの? 太郎も功徳を積んでいたのねえ。お母さま、分けてもらおうかしら。お父さまの亀と太郎の亀とどちらに乗せてもらおうかしら。男の子を産むと得ねえ」


 太郎が亀の話をするのにも忍はいちいち相槌を打つ。

 忍は天女ではなく太郎も人の子なのだろう。


「姫はお父さまの亀に乗せていただきなさい。――ならわたし、太郎の方に乗せてもらった方がいいのかしら?」

「どうして姫は兄さまのに乗っちゃいけないの?」

「きょうだいは一緒に乗るものじゃないと思うわ。わからないけれど」

「わたしもお母さまと乗りたい! 兄さまはいいからお母さまと一緒がいい!」

「太郎もお母さまと一緒がいい! 姫、降りて!」

「これこれ駄目よ二人とも、女君の袖を引っ張っては。着付けが崩れるじゃないの。お乳がまろび出てしまうわ。お父さまの前で、お母さま恥ずかしいわ」


 忍は子らに両側から腕を取られて、口では抗議するが満更でもなさそうだった。普段は「子供なんてそのうち母親に見向きもしなくなる」とひねくれたことを言っているくせに。

 彼女は優越感が満たされたのだろうか。祐高に笑顔を向けたが――勝利の表情が揺らいだ。


「ど、どうなさったの祐高さま」


 祐高の方は気づいたら涙をこぼしていた。悲しいようなことなど何もないはずなのに。子らも不思議そうに彼を振り返った。


「お父さま、亀に乗れるの嬉しくない?」

「お父さまも一緒に乗るのよ。仲間はずれではないの。兄さまが一人で乗ればいいの」


 子に気遣われてしまった。


「わたし泣くようなお話、した? も、もう天に帰るとか言わないから。意地悪を言ってごめんなさい」


 忍まで怯んでしまったのかすっかりしおらしくなってしまっている。少し恥ずかしい。多分彼女のせいではない。

 皆を心配させてはいけない。祐高は袖で涙を拭った。何か言わなければ――


「――忍さまは亀より美しい」

「当たり前じゃないの」


 褒めたのに喜ばれなかった。

 忍は羽衣で空に舞い上がることはない。

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