三十二分の恋
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
十八歳の祐高卿と二十歳の忍の上の嬉し恥ずかし夫婦生活の実態は……親孝行と先祖供養。
君たちは真面目をはき違えている。
頼まれてもないのに番外編SSです。
この家では恋とは健康法の一種だ。
「忍さま。陰陽師が言うには男は陽の気、女は陰の気を持つとか。男女は互いに陰陽の〝気〟を練り、通い合わせてこそ健やかな身体が保たれる。悪い〝気〟が身のうちに溜まると死んでしまうこともあるそうだ。わたしを長生きさせるためと思って力を貸してくれないか」
二人目の子を産んだ後、夫は床に入る前にこんなことを口走るようになった。
それまではこうだった。
「夫を迎えて子の二、三人も産んでみせなければ家族に会わせる顔がないとおっしゃったのは忍さまだ。親孝行。そして一族の繁栄は先祖供養にもなる。理を弁えた大人として夫婦は子を授かるよう努めねばなるまい。世間体というものもあるし、仲睦まじいふりもせねば」
十六、七歳の祐高は「来世、同じ蓮の上に生まれ変わろう。今宵は愛を語らい、契り明かそう」などという歯の浮く言葉を唱えなかった。代わりに世間体などを振りかざした。――忍も父の邸に住んでいたときは「まあ雅な方でないのを知った上で頼んで結婚してもらったのだし、折角毎晩来てくれるのだし、きっとご自分では真面目なつもりなのだし。言い方が雅でないと怒るなんて子供っぽい。わたしは年上なのだし、愛想よく良妻賢母のふりくらいしようか」と応じていた。
ということで二人の子は理を弁えた大人による親孝行と先祖供養の賜物だ。夫婦はどちらも理性的だった。
しかし十八歳で健康のためとは。あくまで彼は色欲というものを認めないらしい。人並みに旺盛な方だと乳母などは言う。
忍は二度ほど彼の〝健康法〟につき合ったが、三度はないな、と思った。
「男君は陽の気が余りがちと聞くけれど、女はそうでもないんじゃないかしら。産んだばかりでまた授かったら健康どころではないし。〝気〟を通い合わせるのは他の女では駄目なの? わたしの側仕えなど綺麗どころを揃えているわよ」
三度目にそう渋ってみせると、祐高の目が泳いだ。
「……枕が変わると眠れない。そう。明日は大事な勤めがあって早起きしなければならない。他の者だと緊張してしまう。忍さまならよく眠れる。今宵は忍さまが相手をしてくれ、すまないが」
「よく眠れる」
「そうだ。正しく〝気〟を練り、通い合わせるとそのような作用がある。よい眠りは目覚めもよく、腹が減って朝餉も美味い。よく眠りよく食べる、雅ではないが健康とはそのような日々の暮らしを積み重ねた先にある。わたしはまだ若いと言うが年を取ってどこか悪くしてから慌てても遅い。多分相性もあるのだ」
急に早口にもなった。祐高が寝つきが悪くて困ったなどという話は聞いたことがないが。
「友人たちは毎日同じことの繰り返しではうんざりだ、何でも目新しいものがいいと言うが、わたしは毎日同じものの方が落ち着く。毎日、朝は湯漬けと瓜を食らい、夕は水漬けと鮎を食らって忍さまと休む。これが一番わたしに合った生活なのだ。突然習慣を変えると体調を崩す」
ということでその夜は彼の安らかな眠りのために二人して〝気〟を練ることになった。忍は特に〝気〟を練ることで眠りが深くなったりはせず、「枕が変わると眠れない」なら内裏で宿直するときはどうしているのかと思ったが、今やふりではない本物の良妻賢母なので一度は聞き流すことにした。
忍の寝所は御帳台の薄い帳のうち、高麗縁の畳二枚分。帳の布はいつも清らかで一番上等な香を焚きしめて、御溝水の流れる音がさやさやと響く。
衣の美しさではごまかせない場所。
ここに入れる男は二人だけ、三歳の長男と夫――今のところは。
夜半に夫が寝床で身じろぎした。
起き上がり、衣を一枚取って御帳台を出た。一人分の温もりが床から消えた。――よく眠れるとは何だったのか。
比翼連理、偕老同穴と言ってもこんなものだ。片時も離れないなんて不可能だ。百年の恋も冷めるとはこんなものか。
――自分も、不浄のときにやたら寄り添われたら困るのだが。肉ある人の子というのは不都合だらけだ。子を産んでからというもの身体のあちこちが軋んでいるようで娘時分とは変わってしまった。夫に言えない悩みが増えた。
早く来世、極楽の蓮華に生まれ出たいものだ。天人になれば尾籠な悩みとは縁が切れる。
そのときは祐高は一緒なのだろうか。――何だかどさくさに紛れて一緒にいるような気がする。二人も子を産んでしまったらきっと御仏は「仲睦まじい夫婦」と断じていろいろと便宜を図ってくれるのだろう。いいのか悪いのか。
まあ何だかんだ、彼は性根が善良だ。今どきは忍の方も祐高の妙な小理屈が馴染んでいた。きっと照れ隠しなのだ。それなりに気性の合うところがあるからあの言い草を受け容れていられるのだろう。健康法というのももっとおおらかに受け止めてやるべきなのかもしれない――
――戻るのが遅くないだろうか。
小用だと思っていたのに。時間のかかる方、だとしても長い。何だか忍はすっかり目が醒めてしまった。御溝水の水音が耳につく。
こんな夜中に何の用が――
夜中に用事など、男君にはいくらでもあるではないか。
急に御帳台の中が冷たくなった。
二人分の衣の、一枚減ったのがやけに寒く感じた。
ああは言うものの、忍では足りなかった?
他の女では駄目なのかと問うたのは自分だ。
忍の側仕えの女房などがいくらでも廊で寝ている。
主に声をかけられれば拒むまい。
真夜中のこと。
男君は烏帽子を着けて単衣の一枚も引っかけていれば足りる。彼はこの邸の主なのだから。
女はそうはいかない。袴も着けずに御帳台を出るなど。
薄布一枚の帳が分厚く思える。たった一枚の布。その向こうのどこか。
闇の中で夫は女房などの寝床に潜り込んでいるのだろうか?
無論、一声上げれば女房が衣を着せに来てくれる。自分こそ小用のふりをして人を呼んで、堂々と御帳台を出ればいい。
だが。
それで本当に誰か他の女と寝ていたらどうする? 引きずり出すのか?
普段は他の女では駄目か、などと嘯いておきながらいざとなったら嫉妬を剥き出しに――
――嫌な女、嫌な女、嫌な女――
夫の足音が戻ってきたとき、ほっとした。用足しにしては長いが女と逢瀬にしては短い。と思う。
「遅いお帰りね」
帳布が開いて外の風が舞い込んだ瞬間、つぶやいていた。待ちきれなかった。
「あれ、忍さま。起きていたのか」
祐高の声はのんびりとして、慌てたり何かをごまかしたりする気配は微塵もない。
「悪い人、妻を独り寝させるなんて」
「本当だ」
安心したくせについ厭味が洩れた。それに少しも気づかずに衣をかけ直してくれる彼に申し訳ないような。
「起きているのなら一緒に見ればよかったな」
何も気づかないのが憎らしいような。
「簀子縁に出たら、月が明るくて綺麗だった。満月には少し足りないが。ついぼんやりと見てしまって。これまで月をじっと見たことなどないのに」
「まあ。あなたの浮気相手は姮娥だったというわけ」
「浮気? 手厳しいな。蝦蟇を愛する趣味はないぞ」
姮娥は月に住まう仙女で月の表に見える蝦蟇や兎のような模様は彼女の使いだとも彼女自身だとも言われる。
「夜中に起こしてしまって怒っているのか?」
「さあね」
「さてどうして埋め合わせをしよう――」
彼は当たり前に大きくて暖かい身体で床に滑り込んできて――
「――いや。女の方から不貞を疑うのなら証すすべは一つか」
忍にほおを寄せてきた。最近、彼は髭が伸びるようになってくすぐったい。
忍はと言えばてっきり今夜の分は済んだと思っていて、抱き締められると身がすくんだ。
「朝、早起きしなきゃいけないんじゃなかったの?」
「妻の心を満たさねばならないこのときに、お勤めなど後回しだ」
「わたし、満たされてないわけじゃ」
「不満もないのに夫の心を疑ったと? 捨て置けぬなあ」
怒っている、わけではなくて祐高は何やら嬉しそうだった。忍の弱点を掴んだと思っているようだった。
「わたしにも男の矜持というものがあるので。忍さまはあまり迂闊なことをおっしゃらない方がいい」
その後、健康法はしばらくなりを潜めて、床に入る前の文句は「忍さまは意外と嫉妬深いので心を満たしてさしあげる」となった。