別当祐高卿、異郷に迷ふこと
21歳の別当祐高は16歳のいとこの純直に強引に猪狩りに連れ出され……なぜかタイムスリップして23歳のはずの妻、忍が10歳なのに出会う。おかしな夫婦の物語、番外編! 頼まれもしないのに販売記念SS!
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汀こるもの|講談社タイガ|講談社BOOK倶楽部
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「本日は忍さまのお祝いに」
そういえば純直は宴席にいなかった。今年十六だが通う女君などできたのか、隅に置けない、あいつもすぐに妻子の一人や二人と皆で笑っていた。
昨日、祐高は義父と実父と義兄と兄とその他一族郎党に取り囲まれて散々酒を飲まされた。己の慶事だから盃を勧められると断りづらく、深酒をしてまだ頭が痛い。
だというのに、朝から五つ下のいとこが押しかけてきて仔犬のような目をきらきら輝かせた。
「狩りに行きましょう!」
純直は朝早くに華やかな緑の狩衣で、一番いい馬と二番目にいい馬に馬具を着けてやって来た。――太政大臣家で一番の名馬は実質、京で一番の名馬、今日はその一番の葦毛に祐高を乗せてくれると、それが祝いだと。
色気づくどころかこのありさま、果たして十六の線の細い美少年の考えることか。十歳くらいの発想では。
「別当祐高さまもたまには弓を引かないと、弓も弦も弱ってしまいますよ。わたしたちは武官なのですから、鍛錬を兼ねて!」
それで祐高は彼と対になるよう二藍の狩衣をまとい、久方ぶりに重籐の弓を持たされて。
高雄の山に猪狩りに出かけることになってしまった。宿酔いなのに。
「普通、贈りものを持ってくるのではないのか」
「夫君自ら北のお方さまのために心をこめて猪や鹿を射て夕餉とする。ものではなく真心を妻に捧げて愛の証とするのです。不肖、純直がお手伝いを。秋の実りを堪能しましょう」
――鍛錬だと、馬鹿も休み休み言え、検非違使別当だの兵衛督だの少将だのの高級武官が馬を駆り弓を引く事態になったら京は終わりだという感じだったが、純直は従者から犬から狩りに馴れたものばかり連れてきて祐高の拒絶など聞く耳持たなかった。
てっきり二十一歳の祐高が兄貴分、十六の純直は弟分だと思っていたのに祐高が引っ張り回される一方。思いつきが先走る少年に行動力まであると手に負えない。森の木陰を進んでいてさえ残暑が厳しくて汗をかくのに秋の実りとか。
「こういうときは精の強い滋養のあるものをお召しになるのが一番ですよ。女人こそ肉を食し、力をつけるべき。生姜をすり潰して葱の刻んだのとともに焼くと美味ですよ」
純直が自信満々なのがまた。猪肉の食べ方とか、彼に憧れる姫君が聞いたら卒倒すると思う。
「確かに忍さまのために滋養は日々、様々なものを探して取り寄せているが……蘇やら卵やら。おとといなど大きな鯉をあらいにして。桶より大きくて生きている鯉だぞ。あんなものを食べた後で猪など、刺激が強すぎて逆効果では。身体がびっくりしてしまう」
「蘇や卵や鯉では血の気が足りません。父の側女が評判の美女なのですが、たびたび鼈の生き血を飲んでいたそうです。首を刎ねて酒で割って。それで本人は肌が滑らかで弟は骨太に生まれついて、馬から落ちて腕を折っても寝つきもせずすぐ治りました。母が滋養に満ちて若々しいと子もたくましく育ちます」
「お前が狩りに連れ出して落馬させたのではないか、それは。一体父君はどんな鬼女のもとに通っておられたのか」
「もう随分な歳のはずなのに全然老けなくて少し怖いとは思います」
美男美女は皆、そのようにしなければ美貌を保てないと言うのか。何て恐ろしい世の中に生まれついてしまった。
「――そうではなくて、妻のためでも殺生をしたら仏罰が下るのではないかと言っているのだ」
「仏罰など法師が語るただの説法ですよ。純直は今年だけでもう四頭も猪を狩りましたが化けて出たものなどおりません」
「お前の分まで我が家にまとめて化けて出たらどうしてくれる。わたしには信心があるのだ」
「信心があると罰が当たって、ないと罰すら当たらないのでは信心などない方が得ではないですか」
「お前、死後に地獄に落ちても気づかずに楽しく暮らしていそうだな」
冗談のつもりだったが、この調子で獄卒の牛頭馬頭と意気投合して、金棒で追い立てた亡者を純直が射ているところを想像するとぞっとしない。何なら、極楽にいる祐高の方が蜘蛛の糸など垂らして苦労して世話してやるわりに感謝されなそうな。
「全く、馬鹿を言うな。鼈の生き血など忍さまにさしあげられるか。いくら身体にいいと言っても」
普段、祐高と忍は比翼連理の鴛鴦夫婦などと言って人の妻に獣の生き血だの肉だの。忍は曲がりなりにも血筋正しい公卿の姫で公卿の妻、花の枝や綺麗な貝殻や和歌など風雅なものを喜んでほしい――というものの和歌など祐高も贈っていない。少し自分の行いを反省した。
「木陰は虫が多くて困りますねえ。蚊も虻もいなければもっと世の中よくなるでしょうになぜこんなものがいるのでしょう。八百万の神々は気づかなかったのでしょうか」
犬が獲物を探している間、純直は弓を振って空中を飛ぶ羽虫を打ち払おうとしていたが。
「いや、これは蜜蜂だぞ。手を振り回すとかえって刺される」
黄色い虫を見て、祐高はふと気づいた。何やら、貴族の練り香とは全然違う甘い匂いがする。少し酒のようでもある。ふわふわした蜜蜂は虫けらにしては愛らしい方だ。
ということは。
祐高は馬の首を軽く叩いて、匂いの方へと自然に歩き出させてみた。馬は気の赴くまま藪の中に進み入り。
小笹を掻き分けた先。大木の枝に黄色っぽい茸のような塊が生えて、蜜蜂が群がって蠢いていた。虫たちの隙間から金色のしずくが垂れて下の草の葉に滴り、固まって琥珀のようになっている。
「――蜜蜂の巣だ」
馬もあまり近づいてはまずいと気づいたのか足を止めた。少し神々しく思えて、祐高は手を合わせた。純直も少し遅れて笹の藪を掻き分けてきた。
「ああ、蜂がこんな。初めて見ました」
「あの滴るしずくは山に咲いた花々から集めた蜜だぞ。いかにも寿命が延びそうだ。蜂蜜は甘葛とはまた違う甘さで美味で万病に効く薬であるという」
「たまに献上されますね。いつも採れるものではないと。山で採れるものだったのですね」
「蘇や削り氷にかけてもよいしこれで唐菓子を作ってもよい。米の粉と蜂蜜とを練って餅のようにして油で揚げる。天人はそのようなものばかり食べていると思う。甘いものが身体に悪いわけがない」
「祐高さま、嬉しそうですね」
「忍さまにはこういう美しいものを食べてもらいたい。虫ならば血が流れていないから猪や鼈ほど仏罰が下る感じがしない」
「そうですかあ?」
「蜜蜂はわたしたちとは全然違う生きものであるから」
「猪もわたしと同じ生きものとは思いませんが」
「猪など持って帰ったら忍さまは卒倒――いや呆れ返るであろう。蜂蜜は花の香がして歌も詠めそうだ」
「猪では詠めないですか」
「詠めん」
鹿だって普通、歌に詠むのは生きて鳴いているものだと思う。
「しかし相手が虫けらでは弓矢で、というわけにはいきませんね」
「煙で燻して蜂を眠らせるとか聞いたことがある」
「煙……何の木でもいいんでしょうか。ええと、火を点けてぼうぼう燃え上がらせては駄目で、ほどほどに消さなければ煙は出ないですよね。松明に火を点けて叩き消して……風向き……」
純直は珍しく考え込んで指を舐めてみたりしていたが。
「――やめよう」
「え」
「確か和泉守の下人に田舎の出で蜂の巣取りが得意な者がいた。ここにわかるような印をつけて、取りに来させてはどうか」
何だかとても考えなしなことをしているような気がした。
「わたしたちで下手にいじるより慣れた者に任せよう。顔や手足を覆ったり、仕度もあるのだ。蜂は逃げても巣は逃げん。台なしにしてしまっては元も子もない」
「それはそうですが折角ここまでたどり着いて、味気なくないですか」
「お前が蜂に刺されて顔を腫らしでもしたら親御さまも宮中の女官たちも嘆くぞ、折角美男子に生まれたのだ」
「祐高さまだって美男ですよ、いつも難しい顔をしているから女官も距離を置いているだけで」
「ではそういうことにしておこう」
「しておくって何ですか」
どうしてか、純直の声を聞いていると不安になってくる。二人して蜂に刺された上に蜂蜜の匂いに引き寄せられて熊が現れて全て台なしにされる、そんな気がする。
「そうと決まったら何だか腹が減った――」
今朝は宿酔いで朝粥があまり食べられなかった。
腹が減ってめまいがする、と思った矢先、身体の感覚が消えて目の前が真っ暗になった。
* * *
――暗い中に仄かな灯りが見える。灯火か。
身体を起こしてみると。
「あれ」
高い声が上がった。すぐ目の前に小さな影が。
灯火の光に浮かび上がったのは、幼い振り分け髪の童女の顔だった。十やそこらなのだろうか。小綺麗な衣を着ていて人形のようだ。娘が大きくなったらこんな風なのだろうか。
人形ではない。祐高をまじまじと見ると、袖で口許を覆った。
「……間男だわ。塗籠に間男が」
つぶやいた言葉が子供らしくない。その様子が、邸にいるはずの妻に瓜二つだった。
「姉さまは先月、聟君をお迎えになったばかりなのにこんな大きな間男が夜這いにやって来るなんて。いえ、お母さま目当てなの? 何てこと。道ならぬ恋のただ中に居合わせてしまったわ。間の悪いことになってわたし、口封じされてしまうのかしら。まさか童を殺めたりしないわよね」
べらべら喋り始めるのも妻にそっくりだった。京にこんなに早口な貴族の姫が他にいるはずがない。
「ご、誤解だ忍さま」
「忍ですって」
それで祐高はついいつものくせでうっかり妻に話しかけるように言ってしまったら。
「わたしの名を知っているなんて、わたしが目当てなの。光源氏なの」
ますます童女は妻そのものの反応を返すのだった。
「わたしが十歳だからさらって若紫にするつもりなの。桔梗の言う通り身を隠していたつもりだったのにいつ垣間見られたのかしら」
――桔梗というのも妻の乳母だ。今も仕えている。
「まだしばらくは桔梗に甘えて人形で遊んでいるつもりだったのに。さようならお父さま、お母さま、姉さま。さようなら無邪気な少女の日々。ちゃんとした淑女になるはずだったのに蕾のまま男の手にかかってしまう親不孝をお許しください」
「ち、違う。忍さまと妹背となるのは十六歳になってから」
「わたし、六年育てられてから手籠めにされるの!? もう段取りが決まっているの!?」
「そういう意味ではない!」
こんな口の減らない若紫がいるか、せめて失神してみせろ――しみじみ、忍が十六まで求婚者もなく独身だった理由がよくわかる。十四歳で結婚しろとせっつかれた祐高がいかに女に興味がなく親兄弟の言うがままだったかも。
忍は昔、とても気性がきつかった印象があるのは我知らず恨んでしまっているのかと思っていたが、目の当たりにするとやはりきつかった。記憶が歪んでいるわけではなかった。
ふと見回すと、衣をかけた衣桁やら飾り棚やら建具やらがところ狭しと置いてある。大の男が座っているには少し窮屈で埃っぽい。灯りは童女が持ってきたものだけのようだ。塗籠なのだろうか。馬や純直や従者たちは影も形もない。
「――ということはここは冬桜の院なのか」
「自分の忍び込んだ先も知らないとか」
妻の実家だとしたら、権大納言さまご自慢の冬と春と二回咲く世にも稀なる桜の木のあるお邸だ。塗籠に入ったことはないが。
「忍さまが十歳?」
祐高の知る妻は二十三歳なので、十三年も前ということになる。妻は二つ上なのでその頃、祐高はまだ元服前で八歳だ。
たった十歳なのに口の達者なところはもう二十三歳の忍と比べて遜色ない。身体が小さいだけで確かに忍だ。顔立ちがどうとかよりこんな性根の女が他にいてたまるか。
「でもあなた、お顔は凛々しいわ。どこのどちらさま?」
結局、幼い忍はきゃあと悲鳴を上げるでもなく好奇心いっぱいの目でじっと祐高を見上げる。幼子ゆえに警戒心がないのだと思いたい。
「……検非違使別当左兵衛督中納言藤原祐高と申す」
「長いわ。けびいし?」
「中納言祐高」
「まあ。お若いのに中納言。それで男前。狩衣の仕立てもいいし香も好みだわ」
少し声が高くなった。子供のくせに男の官職を聞いて手のひらを返すとは、我が妻ながら何というかわいげのなさ。
衣の仕立てがいいのは忍が自分で作ったものだからだ。香も忍が選んで焚きしめた。自画自賛。それで童女の忍は指先でしなを作った。
「……光源氏でも仕方がないのかしら。わたし、ここで拒んでもこれよりいい物件に出会うことはないのかしら。少し考えさせてくださらない? 女三の宮が現れたとしてもそれなりにお世話してくださるのなら。ご長男? 次男?」
「人を物件と言うな。夜這いでもさらいに来たのでもない。道に迷って入り込んでしまっただけだ」
祐高はいっそ、説明できないので堂々とすることにした。誰か人に見つかって詰問されたらそのときはそのときだ。
「道に迷うってどこで迷ったら塗籠に」
「猪を狩っていたら急にめまいがして馬から落ちたのか?」
「それでうちの塗籠に入り込むとか、童女なら舌先で言いくるめられると思っているのかしら。京のどこに猪が出るのよ」
「いとこに連れられて高雄の――わかった、言い方を変えよう。蜜蜂を追っていたら仙境、いや竜宮城に迷い込んだようだ。そなたは仙女か乙姫か」
「あまり変わっていないわ、光源氏と若紫にしておきなさいよ」
どっちが大人だか。
――塗籠の中は暗いが、夜なのだろうか。昼でも戸を閉め切っているからだろうか。
「そなたこそ、なぜこんなところにいる。姫君の住まいには見えんが隠れ鬼でもしているのか? 仕置きされて閉じ込められているのか?」
確か、何やらの物語の姫君が継母に塗籠に閉じ込められるのだったか。忍の実母は健在のはずだが。
と、忍は珍しくすぐに返事をしなかった。
「……わたし、家出中なの」
「家の中で家出とは」
「だって外に出たら危ないじゃないの」
何やら不貞腐れているような声音だった。
「あなた光源氏ならわたしをさらって。二条でも北山でも」
挙げ句の果てに、狩衣の袖を掴んで無茶を言う。
「冗談ではない、童女をさらって連れ帰ったら北に隠し子かと勘繰られる」
「北の方がいるの、葵の上だわ。中納言さまにいないはずないわね」
――忍のことだ。童女など連れ帰ったら「隠し子! 祐高さまにそんな甲斐性が! 今日は鯛か海老を焼きましょう! まあ姫君。頑張って明石中宮に育てなければ。わたしに任せて」と祐高の話も聞かず、自分に似ているというのがどういうことかも考えずに一人ではしゃぐのに決まっている。そもそもどうやって連れて帰るかという話もあるが。はて。十歳の忍をここから連れ出したら二十三歳の忍はどうなるのだろう。
「もしやそなた、すねているのか」
幼い忍の返事はなかった。
――ええと。姉姫さまが結婚したばかりで?
「姉上の聟君が浮気な真似でもなさって、それを姉上にそのまま申し上げたら悪口のようになって叱られでもしたとか? あるいは父上?」
「ど、どうしてわかるの」
適当に言っただけだったが、当たったようだ。
――大体知っている。
――あなたが本当のことを言うと大抵の人は機嫌が悪くなる。
「わたしはあなたの行く末なら何でも知っているのだ」
何でも、は言いすぎだ。二十三までしか知らない。
「姉上のことを慮っていたのだろうが、少し言い方がきつかったな。大丈夫だ。姉上はあなたを許してくださるから、男にさらわれたいなどと言うな。わたしが悪いやつだったら大変だぞ。塗籠にいるわけのわからん男など信じてはならん」
娘と思って、頭を撫でてやった。
「……姉さま、許してくださる?」
「ああ。本当のことを言われるとつらいだけだ」
「塗籠にいるわけのわからない男なんか信じられないわ」
「しまったな、もう矛盾した。まあ大人と言ってもこんなものだ」
少し笑った。
「だがあまり何度も悪口を言って、あなたばかり姉上に嫌われては損だぞ。次は何か思っても黙っていた方がよい。歴史をひもといても忠臣の諫言が受け容れられるとは限らず、賢い人間は喋ることよりあえて喋らないことも大事なのだ。それほど軽薄な浮気者ならば姉上も自分で気づくはず」
「それはそうだわ」
忍はそれで納得したらしい。真顔でうなずいた。
「ええと、中納言さま。お名前をもう一度教えてくださる? 何という字を書くの?」
「うん、難しい字ではないのだが――」
祐高は床に指で〝祐〟の字を書こうとしたが。
「どちらにお住まいでいらっしゃるの? お父君のお名前は?」
それを聞いて動きが止まった。
ここで忍が祐高に興味を抱いたとして、六年後、十四歳の間抜けな小僧に出会ったらがっかりするのではないか。
十四歳の間抜けな小僧の方はどうすればいい。
そもそも彼女が素敵な男君を探していたら祐高とは出会っていないのだ。張り切って出会いを求めて十六より前によその男を聟に取ってしまうかもしれない。
祐高が聟になれないだけならいいが家族は。
それに今、八歳の小童は。
中納言祐高などまだいないのだ。大将の次男、元服前の二郎高井丸だ。
うっかり住んでいるところなど教えて、彼女が探し当てたら。
そこに光源氏どころか、虫に怯えて泣くような童子がいたら彼女はどう思う。
確か、八歳の頃といえば。
思い出して血の気が引いた。
剣術では兄に泣かされっ放し、かといって雅な和歌が詠めるわけでもなく趣味は綺麗な石を拾うこと――大分大きくなるまで川原を歩き回って石ばかり磨いて、木石が仲間を集めていると兄や友人に囃し立てられて――
まずい。こんなませた口を利く少女と出会う仕度などできていない。
――十歳から見れば二十一歳は誰でもたくましくて男前のような気がするだけでは。大人っぽくて落ち着いているのは当然だ。それを子供相手に賢しらに。
――気取って大人ぶった少女が大人に話しかけられてはしゃいでいるだけでは。
――彼女が好ましいと思っているものは全て二十三歳の忍の上が整えたところで祐高の器量などではないのでは。
普段は二つ上の忍に敵わないが流石に十歳児よりは分別がある、だから何だ。大人の余裕など見せつけてどうする。
自分では何もしていないくせに彼女も子供の頃はかわいかったのだなあ、なんて。
急に、ずるをしているようで気が咎めたとき。
飾り棚に重そうな銀の皿があるのが目に入った。
「――どうなさったの、中納言さま」
忍が袖を引っ張った。
「全部嘘だ!」
「え」
「わたしはこの邸の桜の木の精。お庭の桜が年に二度咲くのは奇瑞ではなく年経た物の怪の仕業であった」
慌てて、いよいよ嘘八百を述べ始めた。口調が違うのに忍も気づいたらしく首を傾げた。
「急にどうしたの」
「突如として塗籠に現れた男がただの人のはずがないだろう。間男ではなく化けものだ。この十年ずっと、そなたが一人になるのを待っていた!」
わざと彼女の肩に手をかけ、顔を近づけてにじり寄った。少しでも悪党に見えるように目に力をこめたが、どうだろうか。
「この家には娘が二人いるのだから一人は喰らっていいだろう。家の主は桜の花を代々の帝にもご照覧いただき、大層自慢しているのだからそれくらいの見返りがあってしかるべきだ。生娘を喰らうと寿命が延びる!」
こんな感じでそれっぽいだろうか。目を見つめているので、だんだん忍も気圧されたかじりじりと後じさり始めた。
容赦なくにじり寄り、二の腕の辺りを掴んで揉みしだいてみた。
「童女はいい匂いがする、この辺の肉が柔らかくて美味そうだ。おうおう、よく育った。童は骨まで喰らえて得でな。生き血も酒に混ぜて一滴残らず飲み干してくれよう」
いやこれでは足りない。腰に手を回して撫でさすってもみた。全然細くてやせっぽちで昨日酒盃を交わした義父に申しわけなく思ったが、心とは裏腹に一生懸命いやらしい笑いも浮かべてみた。
――少し考えて、口を大きく開ければいいのだと気づいた。
やっと忍が自由な片手を飾り棚に伸ばし、皿を手に取った。
銀の飾り皿でしたたかにぶん殴られ、目の裏に星を散らしながら、これで大丈夫だ、お前は何をしてもこれよりましだ二郎高井丸と念を送った――
* * *
気づいたら口の中が甘くて、むせた。
純直に蜂蜜のかけらを詰められていた。
煙の匂いがする。従者たちが松明の煙で蜜蜂を追い払っているらしい。切った猪の肉を皮に包んで運ぶつもりだったが代わりに蜜蜂の巣を包むのだとか。
祐高はしばし、純直と馬たちに見守られて木陰に敷物を敷いて座り込んで休んでいた。竹筒に入った水など飲みながら夢とも現ともつかない不思議な塗籠での出来事など語ったが。
純直は実に嬉しそうに何度もうなずいた。
「――まさしく竜宮城ですね! 山の中で仙人が碁を打っているのを木こりが見ていると、人の世では数十年も数百年も過ぎていて斧の柄が腐ったなどと言います! ええと、天界での一昼夜は人界の四百年に相当するとか。天人ならば昔の出来事を変えるようなことも叶うのでは!」
「いや、ただの夢だったのだ。言っていて恥ずかしくなってきた」
殴られた頭がずきずき痛む気がするがこれは宿酔いのせいか。
「こちらでは少しの間、お倒れになっていた様子でした。餓鬼に憑かれたのですよ」
「餓鬼?」
「目に見えませんが飢えて死んだものの魂がそこら中をさまよっていて、隙あらば生者に取り憑いてくるのです。普段外に出ない方が急に馬を駆ったりして腹が減りすぎると餓鬼に憑かれて倒れて、そのまま死んでしまうこともあるのです。腹が減るとか冗談みたいですが恐ろしいですよ。騎馬の師も弓の師も太刀の師も皆、〝餓鬼に備えよ〟と」
「そ、そうなのか」
――普段なら笑い飛ばすところだが実際、気絶して落馬してしまった辺り。落馬して頭を打って気絶したのではなく、馬から落ちるより前に気を失っていたと。宿酔いと寝不足で気が遠くなったような憶えがある。一瞬だったが心だけ真綿に包まれて身体が動かせなくなったような。魂が抜け出たような。
馬上から射る騎射は鞍に座るのではなく両足で鐙を踏み締めて立ち、手綱ではなく鐙で馬を操り、駆けながら両手で弓矢をかまえるので地面を歩くより疲れる。乗り手の足から力が抜けたのに馬の方が気づいて、落ちるとき怪我をしないよう庇ってくれたそうだ。京で一番の名馬とは見た目だけでなく機転も込みの評価で人よりよほど賢く、今も息を潜めて神妙な顔で純直の話を聞いていた。
「米を一口ばかり食って水を飲めば餓鬼は満足して去ります。わたしはいつも近場でも馬を駆るときは小さな餅や干し飯を持って出るのです。塩もあるといいとか、干し柿が効くと言う者もおります。蜂蜜も効くのですね、流石万病の薬」
「餓鬼に憑かれて魂が弾き出されて、死ぬると慌てて妙な夢を見たのかな」
「夢でしょうか」
死ぬ前に、せめて魂だけでも妻のもとに行って最後に言葉を交わそうと思ったのだろうか――うっかり昔の幼い妻のところに行ってしまったせいで何だかよくわからないことになったが。
「しかしご自分のために身を引くとは奥ゆかしいのか何なのか! どうします、お邸に帰って昔が変わっていたら! 童女の頃に桜の精に襲われて恐怖で男嫌いになって、独り身のまま後家になった忍さまがお前など知らんと言ってきたら! これまでの全てがなかったことになっていたら!」
「恐ろしいことを言うな!」
純直の話はたちの悪い冗談だったが。
「あるいは祐高さま、桜の精ということにしても、塗籠の壁に名を書いてくるなどしていれば運命の恋であると刻むことができたのでは? この名前の男こそ前世の縁で結ばれた将来の夫だ六年後に出会う絶対に聟に取れと童女の忍さまに念を押して」
「それはかえって無粋だ」
祐高は即座に言い切った。
「塗籠にわたしの名が書いてあったからわたしを夫に選んだというのは全く忍さまらしくない」
「そうですか? いつか結ばれる夫や妻の名を知ることができたら心がときめきますよ。占いでわからないか未来の夢を見るまじないがないか、男も女も皆、必死ですよ」
「そんなことで心ときめくような女ではない」
――立派な男君だったからとか運命を感じたとかそんな理由で選ばれたのではない。
塗籠に将来の夫の名が書いてあったなんて全然駄目だ。
どうだろう。祐高があの夢を見て、京は何も変わっていないだろうか。妻は昨日のように邸で待っているだろうか。
あるいは。
妻の実家の桜の木が切られてしまっている、ということもありえる。物の怪封じのまじないなどされて。そうなればあの邸の名前は〝冬桜の院〟でもなくなっている。
あの木には恨みがあるが、濡れ衣を着せて惨いことをしてしまったかもしれない。