第二話「あなたの妻(魔王)です」
『魔王イビルデスクレインの討伐:金貨50000枚!』
クエストボードの最上段で、もはや古びて茶色くなったその紙には、イラストがついていた。
銀色の体、磨かれた槍のように鋭いくちばし――。
「まさか……」
見間違えようがない。
目の前で今にも死にそうなこの怪鳥は、あの魔王イビルデスクレインだ。
フィンは、王都の討伐隊に多数の重傷者が出た、という話を思い出した。
魔王はきっと、その討伐隊に追われて逃げ延びてきたのだろう。
「お尋ね者の魔王がこんなに深い傷を……いや、それよりも……」
――金貨50000枚。
いつもギルドから支払われる安っぽい銀貨ではなく、金貨だ。
一生遊んで暮らせるどころか城が買えるほどの報酬額。
「………………」
フィンは、そっとナイフを抜いた。
首を切り落として持ち帰れば、それで十分な証拠になる。
魔王を倒そうとした王都の討伐隊は、さぞ多くの犠牲を払ったことだろう。
それを思うと、美味しいところだけを横取りするようで心苦しい。
だが冒険者の世界では、成果の奪い合いはいつものことだ。
奪われるやつが、弱いやつが悪い。
フィンは瀕死の魔王を見下ろす。
「悪く、思うなよ」
長い首にナイフをあてがったとき、魔王の頭がわずかに持ち上がった。
おぼろげな赤い瞳が、フィンを捉える。
「………………!」
その大きな眼にはフィンが映っている。
フィンの顔は、思いのほか、醜かった。
苦しい暮らしの中で少しずつ、心身ともに擦り切れてしまったからだろうか。
いや違う、これはただ奪われる者の顔じゃない。
ただ自分のために、金も、功績も、命さえも奪おうとする卑怯者の顔だ。
フィンには赤い瞳に映る自分の顔が、ベイブたちと重なって見えた。
「……やめだ」
フィンは、ナイフを鞘に収めた。
「金貨50000枚……か。だからどうした。どうせほとんど全部ベイブたちの手柄になるのがオチだ」
金貨1枚でも手元に残れば、すぐにでもリーンベイルの街を去ることができる。
“盗っ人のフィン”の噂ともさよならだ。
また、いちから冒険者を始めることができる。
しかしベイブのような連中と同じところまで堕ちる自身の姿を想像すると、虫唾が走った。
なにより、傷つき、もうどこにも飛べない翼は――。
「こいつは……俺自身じゃないか」
もはや目の前の魔王は、獲物ではなかった。
フィンは狩人の矜持を思い出した。
狩る命は自分で選ぶ。
「待ってろ」
「………………」
近くを見渡すと、倒木がひとつ見つかった。
その陰に、〈治癒の薬草〉が密生している。
フィンは〈治癒の薬草〉を手早く摘むと、小さなすり鉢で即席の治療薬を作った。
「ちょっと沁みるかもしれんが、我慢しろよ」
「………………」
大きな体の周囲を巡って、フィンは深い傷口から順に薬を塗りつけていく。
刀傷、矢傷、火傷、凍傷、どれも生半可な攻撃によるものではない。
いずれも超一流の手練れによるものだと、すぐにわかる。
それだけ王都の討伐隊が優秀だったのだろう。
「これでよし……傷はすぐに塞がる。3日もすれば痛みも引くだろう」
「………………」
「そんな目で見るな。今日は運が良かっただけだ。間違っても村なんか襲うんじゃないぞ」
暗い森で銀色の光を放つ魔物の王、イビルデスクレイン。
それはまるで頷くかのように、もたげた首を再び地面におろした。
………………。
…………。
……。
結局〈治癒の薬草〉はぜんぶ使ってしまった。
フィンは何も持たずに、集合場所に戻ることになった。
「ふざけんなよ!!」
今回のクエストの報酬は、受け取ることができなかった。
どうやら集まった〈治癒の薬草〉は最初にフィンが集めた300束と、サンティが集めた200束の合計500束だけだったらしい。
ベイブたち3人に、そもそも働く気はなかったのだ。
しかしフィンは少しばかり晴れやかな気分で、宿屋の扉をくぐる。
フィンは信念をもって、魔王の傷を癒やした。
金貨50000枚を逃したことにも、後悔はない。
「まあ、どうにでもなるだろ」
「どうにもならないよ!」
いつも不機嫌な宿屋の女主人、マーガレットが、フィンに怒鳴った。
「宿代のツケ、いくら溜めてると思ってんだい!? 明日には出て行ってもらうよ!」
「明日って、それはあんまりいきなりじゃ……」
「あんたみたいなゴロツキを、今日まで泊めてやったんだ! 外で“冒険者殺し”にでも食われちまいな!」
“冒険者殺し”というのは、リーンベイルの街を騒がせている、冒険者ばかりを狙う殺人鬼だ。
「………………」
フィンはため息をついた。
荷物をまとめなければならない。
「ついに宿なしかぁ……」
殺風景な部屋に帰ってきた。
しかしまとめる、といってもろくな荷物はない。
「明日からどうするかな……」
そのときだった。
――バゴォン!!
すさまじい衝撃音とともに、部屋の薄い扉が粉々に砕け散った。
「なっ、なんだあ!?」
もうもうと埃の舞う中、フィンはすばやく矢を弓につがえる。
爆散した扉の向こう、廊下に人影らしきものが見えた。
まさか強盗ではないだろう。
こんな貧乏宿に、盗るものなどありはしない。
「何者だ!」
フィンは弦を引き絞る。
「………………」
そこには、まばゆいばかりの美しい少女が立っていた。
銀色の髪が眩しく、凜とした眉の下には、ルビーのように輝く瞳。
「君は……」
赤いくちびるが弧を描き、少女は、深々とこうべを垂れた。
「さきほど助けていただいた、あなたの妻です!」
「………………はい?」
そのまま少女と30秒ほど見つめ合った。
しかし混乱するフィンの脳は、なにひとつ、答えを導き出せなかった。