第十六話「飛び立つ翼」
サンティは、たおやかな笑みをけして崩さなかった。
ただひとり、フィンを支えてくれた、大切な仲間。
“冒険者殺し”――そして。
フィンに苦痛を与え続けてきた、張本人。
テーブルの上で指を組んで、フィンは言う。
「聞いて意味のあることかどうかはわからないが……どうしてこんなことをしたんだ?」
それを聞くと、サンティの笑みは輝いた。
「“恋”をしたからです」
サンティは、静かに語り始めた。
「私はフィンさんの、たったひとりの味方でなければならなかったのです。私にすがりついてくる、傷ついたフィンさんを、私だけが慰める……“優しさ”を、たっぷりと注いで……」
フィンを見ていたはずのその瞳は、気づけば――まるで夢を見るように、あらぬ方向に向けられていた。
「私にだけに向けられた、気持ち。それを、包み込んで、癒して……そうしていつしか機は熟して……」
ゆっくりとイスから立ち上がったサンティは、胸元に手を置いて言葉を続ける。
「切り刻むんです。フィンさん、あなたの肉を、刻みたかった」
サンティは愛おしげに、フィンを見つめた。
「痛みと苦しみが、必要なんです。恐怖と絶望に染まってなお、私にすがりついてくる……その姿を見たとき。はじめて、私は“恋”を信じられるんです」
ベイブたちからフィンを庇ってくれた、あの日と同じようにサンティは優しく語りかける。
「なんども、なんども繰り返して、たくさんの“恋”を集めました。でも、私はいつまでも満たされない。そこに、あなたが現れたんですよ……フィンさん」
「………………」
「すっかりくたびれて、傷ついて、プライドも、なにもかも失っていくあなたを見るたびに、私の渇きは癒されました」
笑顔に、一滴の悲しみが混じった。
「私はあなたに、本当の“恋”をしたんですよ」
しばらく、部屋を静寂が支配し――
それを破ったのは――クレイだった。
「……なにが、本当の恋ですか」
クレイは、イスを蹴って立ち上がった。
「あなた“それ”は飢えた獣の言い訳です」
ルビー色の瞳は、怒りに満ちている。
「はっきり言ってあげます。あなたは本当の“恋”を知らない。これまでも、そしてこれからも」
そのときはじめて、サンティの顔から笑みが消えた。
静寂よりも冷たい目が、炎のように揺れるクレイのそれと交わる。
「“恋”は……旦那さまが教えてくれた“恋”は、そんな醜いものではありません!」
サンティは修道服の袂から、小さなナイフを取り出した。
「あなたのような小娘には、私の“恋”がどんなものか、永遠にわからないのでしょうね」
数多の血を――“恋”を啜ってきた、“冒険者殺し”のナイフが鈍く輝く。
だがサンティは、もうクレイを見ようとはしなかった。
あまりにも、眩しすぎる。
涙が、ひと粒だけこぼれた。
「失恋、しちゃいました」
サンティは欠けた刃を、クレイではなく、自分の喉元に突きつける。
切っ先が柔らかい皮膚を裂こうとした、そのとき。
「……もう十分だ」
フィンは立ち上がって、サンティの腕を掴んだ。
軽くひねると、ナイフは床に転がってむなしい音を立てた。
「君のそれが“恋”だというなら、そんなふうに決着をつけちゃいけない」
交わされた視線の、そのどちらもが潤んでいた。
サンティの体から力が抜け、フィンはそれを抱きとめる。
「……もういいでしょう? 修道長さん」
フィンが合図すると、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、修道長だ。
「本当に残念でなりません。憲兵さんの詰め所へ使いをやりました。もうすぐ来られる頃合いでしょう」
「………………」
憲兵隊が到着するまで、誰ひとり言葉を交わさなかった。
サンティはなにも言わず、憲兵に連行されていった。
ただ――そのときにこちらへ向けられたいつもの微笑みを、フィンは忘れることができそうにない。
フィンとクレイは、騒ぎに紛れて教会の外へ出た。
「あのパーティーでは、散々な目にあったよ」
フィンはひとり、むなしく呟く。
「でも、サンティのことは信じていたんだ」
「旦那さま……」
ベイブの言ったとおり、すべてサンティが仕組んだことだった。
パーティーでいやがらせを繰り返されたことも、悪い噂を流されたことも。
なにもかも。
「………………」
いずれ、すべてが明るみに出るだろう。
やがてリーンベイルの人々が“冒険者殺し”の傷を忘れていくように。
街に広まった、フィンの悪い噂も消えていくに違いない。
そうして、街には日常が返ってくるだろう。
フィンのもとにも、本当の、人間としての日常が。
それでも――フィンはなにか大事なものが、自分の心から抜け落ちたような気がしていた。
サンティの“優しさ”に支えられ、それを疑わず受け止めていた、なにかが――。
「ちょっと……疲れちまったかな」
「旦那さま」
クレイは、わずかに笑顔を見せた。
それがあのサンティの最後の笑みを、少し上書きしてくれた。
「少し、街はずれまで歩きませんか?」
「なぐさめてくれるのか。その気持ちだけで十分だよ。今は少し……」
「いいから、来てください!」
クレイに手を引かれ、街の人の目が届かないところまで、ふたりで歩いた。
足音が、なんだかむなしい。
それがやがて草を踏む音に変わり、街はずれの丘へとのぼった。
「こんなところへ連れてきて、どうするんだ?」
「見ていただきたいものがあるんです」
すうっ、とクレイの身体が浮かび上がる。
そしてその背から大きく広がるのは――見忘れるわけもない。
まばゆい神々しさは、天の使いか。
人知を超えた威厳は、悪魔の眷属か。
最初に会った宿屋で、フィンはそんなふうに感じたものだ。
いま、美しい銀色の翼は、ほんとうに優しく輝いていた。
「いいものを見せてくれて、ありがとう……」
「なに言ってるんですか旦那さま! ここからが本番ですよ!」
クレイはそう言ってフィンの後ろに回って、体をぎゅっと抱きしめる。
「いっきますよー!」
そう言って――クレイはフィンを抱えたまま、空高く飛び立った。
「お、ちょっと待て! 落ちる! 落ちる!」
「心配しないで……身を任せてください……」
そのときのクレイの声は、不思議とフィンの心を落ち着かせた。
ふたりはどこまでも、どこまでも空を昇っていく。
心のよどみを吹き飛ばすような、激しい風がフィンの頬を叩く。
「見てください旦那さま!」
リーンベイル近郊の山々は、まるで手のひらで包み込めそうなほど小さく見えた。
濃い緑の山肌が、奇妙に柔らかそうに感じる。
流れる川が、細く、ちらちらと輝いている。
遠くを見渡せば、円い地平線。
あそこに見えるのは王都だろうか。
そうして、今まで自分を閉じ込めていた、リーンベイルの街――。
「あんなに、小さかったんだな……」
「そうです! あーんなに小さいです! そして世界はこーんなに大きいです!!」
ちっぽけなもので、自分を縛りつけていたのだ。
自分の知らない世界は、大きく眼下にひろがっている。
「こんな光景、初めて見たよ……」
「私も初めてです!」
足下を、小さな雲が横切った。
「恋とか優しさとか、まだはっきりとは、わからないですけれど」
クレイは、フィンの耳元にささやいた。
「旦那さまと見る景色は、今まで見てきたなによりも、ずっときれいです」
きっと今までたくさんの風景を見てきたのだろう。
しかし、クレイの弾む声に嘘はない。
「……そうか」
フィンの呟きは、広大な風景に吸い込まれていく。
悪い噂に苦しんだ。
裏切りに絶望した。
あんなに小さな、小さな街で。
「………………」
心の中で、涼しいものが膨らみ始めた。
きらめいていて、爽快で、それなのに、どこか温かくて――。
「どうですか旦那さま?」
クレイの問いに、フィンは胸が張り裂けそうな大声で返した。
「ああ、最高だ!!」
小さな街を見下ろす、ふたりきりの遊覧飛行。
ふたりはどこまでも高く、空を昇る。
「あんな小さな街で、下向いて歩いてどうするんだ……世界はこんなに大きいのに」
いつぶりのことだろう――ようやくフィンの心に、火が灯った。
けっして何にもかえがたい、琥珀のような、ひそやかなともしびが――。
第二章へ続く
これにて第一章、完結となります。
読んでいただき、本当にありがとうございます。
引き続き、第二章もお付き合いいただけますと幸いです。
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今井三太郎/マライヤ・ムー




