第十四話「恋」
もう、日が昇ろうとしている。
朝焼けが靄のかかる森を照らし、木の葉の隙間からオレンジ色の光線を投げかけている。
その中をフィンとクレイは、リーンベイルの街へ向かって歩いていた。
「………………」
「………………」
ふたりの間を流れるのは、今までで一番長い沈黙である。
クレイとしては――ほんとうのところ、“恩返し”ができればそれでよかったのだ。
その流れで、つがいになれれば、なおよし。
そんな軽い考えでいた。
しかし今。
「………………」
街へ向かう森の道で、クレイはフィンの横顔を見上げる。
悪者をやっつけたというのに、いつもより、ずっと寂しそうな目をしていた。
クレイは思わず声をかける。
「……旦那さま」
「ん? どうした?」
フィンは優しく問い返してくる。
目の奥の寂しさを、クレイに見せまいと、気丈に。
これだ、“この優しさ”だ。
クレイは、自分の頬が熱を持っていることを自覚していた。
「……今の自分が、よくわからないんです」
クレイはそう、正直に答える。
声が少し震えたのが、自分でも不思議と気になってしまう。
そんなクレイに、フィンは前を見たまま、笑ってみせた。
「相変わらず変わってるな、君は」
そうして、クレイを見下ろす。
「疲れてないか?」
クレイの胸の奥が、きゅっと跳ねた。
「はい……その、疲れてはいません」
「そうだ、君は魔王だった。このぐらいで疲れはしないか」
「………………」
誰かに“助けられた”などということは、生まれて初めてのことだ。
まるで人間のおとぎ話みたいに――王子様が助けに来た。
――それも、2度。
「クレイ」
「は、はい!」
物思いにふけっていたクレイは、フィンの呼びかけに体をびくりと震わせた。
「本当に大丈夫か?」
「たぶん、大丈夫なんだと思います」
「どうも、要領を得ないな」
そう言って、フィンは後ろ頭をかいた。
矢筒に残った少ない矢が、からりと鳴った。
「その、君に謝らなければいけないことがある」
フィンはクレイの目をまっすぐに見た。
その改まった態度に、クレイはかすかな不安を覚える。
心の底から申し訳なさそうに、フィンは言った。
「魔王の力を使うな、なんて……乱暴なことを言ってすまなかった」
そのまっすぐな瞳に、クレイは吸い込まれるような心地がする。
人間の瞳が、どうしてこんなに美しく――。
「聞いてるか?」
「……はい、耳には入ってます」
「もうちょっと奥まで届いてくれると嬉しいんだけどな」
フィンはクレイの手を取って、大きな木の根をまたいだ。
大きな手だな、とクレイは思った。
それだけのことが、不思議とうれしい。
「君の力はとても大きなものだ。だからといって、無暗に封じればいいってものじゃない……考えが甘かったよ」
フィンはクレイの手をはなす。
あっ、と思うと――その手で頭を撫でられた。
「力を正しく使うんだ、クレイ」
「正しく、というのは人間の“摂理”ですか?」
「……それも難しいところだな」
眩しそうに朝焼けに目を向けて、フィンは言った。
「君には君の、世界の見方がある。俺だって、君のいう“摂理”はまだよくわからないが……少しずつ見ていけばいい、お互いに」
クレイは、今度はこちらからフィンの手を握った。
「私は、旦那さまの目で、世界を見てみたいです」
フィンは少し笑ってこたえる。
「……そんなたいしたものは見れないぞ」
ふたりの間に、再び沈黙が流れた。
けれども、その沈黙はさっきより、ほんの少し優しい。
………………。
…………。
……。
森から出て、遠くリーンベイルの街へと続く道を、ふたりで歩く。
車輪をガタガタいわせている、行商人の馬車と、すれ違った。
クレイは、会話の邪魔をするそんな音に、どこか安心している自分に気づいた。
――言いにくい何かを口にしようとしている。
こんなふうに感じるのも、初めてのことだ。
「わたくしは……この世に生まれ落ちたときから、ひとりでした」
馬車の音が遠ざかっていく。
フィンはクレイの静かな声に耳を傾ける。
「………………」
「だから親にエサをねだったことも、兄弟姉妹と体を温めあったこともありません。これまで、ただひとりの存在として生きてきました」
クレイの声には、遠くを懐かしむような響きがあった。
「それに、なんの不便も、感じたことはありませんでした」
ぬかるみを避けて、ふたりは歩いた。
「あの森で傷を癒してもらったとき、わたくしは初めて、他の誰かの“優しさ”というものに触れました。そして今日、それをますます強く感じました。旦那さま……」
クレイは朝陽にうるむルビーの瞳を、フィンに向けた。
「わたくしはその“優しさ”を、絶対に失いたくありません」
クレイは、足を止める。
フィンもそれにつられて立ち止まった。
「旦那さまは、あのベイブとかいう男を、同じように癒しました」
「それも無駄になっちまったけどな」
「あのとき、旦那さまの“優しさ”は……“恩”はわたくしだけのものでないという……当たり前のことに気がついたんです」
クレイの視線が足もとに落ちる。
「そうして、それが……」
足もとを見つめたまま、クレイはフィンの手を握る指に力を込めた。
「たまらなく、不安なんです」
「………………」
フィンはクレイのこの言葉をどう受け止めたものか、考えあぐねている様子だ。
クレイは、自分のひとことひとことに、勇気が必要なのがとても不思議だった。
「今も、不安です。爪も牙も剣も魔法も、なにひとつ恐れたことなんてなかったのに。旦那さまの“優しさ”を失うことが、とても怖いんです」
日が昇り始めると、でこぼこの道にふたつの長い影ができた。
影と影とが、お互いを確かめるように手を握り合っている。
「最初は旦那さまにこの身を助けられたことに、旦那さまの“優しさ”にただただ驚いていました。でもわたくしの心を震わせたのは、驚きではなかったのだと、今日、やっと気づきました」
いつもは気軽に腕にしがみついていたのに。
今はただ繋いでいるだけの手が、なによりもクレイの心臓を高鳴らせる。
「嬉しかったんです。旦那さまが、わたくしのために、なにかをしてくれたことが」
「………………」
フィンは黙って、クレイの話を聞いている。
クレイの抱いている感情がなんであるのか、身に覚えがないわけではない。
しかしそれを、クレイがどこまで自覚しているのか――。
「旦那さまの声、旦那さまのにおい、そして旦那さまの“優しさ”……わたくしはどれも失いたくありません。それに怯えていて、けれども心地よくもあって……旦那さま、わたくしはどうなってしまったのでしょう」
「それはその……なんだ」
クレイの問いを受けて、フィンはぽりぽりと頭をかいた。
「“恋”って言葉があってだな……あ、いや、なんでもない、忘れてくれ」
フィンは言葉をにごす。
けれども、適当に返事をしていい問題でもない。
クレイはこれから“人間”を学んでいくのだから。
「いろんな言葉で呼ばれる感情だけれど、名前をつけることにたいして意味はない。ただ、なんというか、その感情は、大事にしてやっていいと思う」
なにもフィンはクレイの気持ちを、自分につなぎ留めたいわけではない。
だがクレイの抱いたその感情は、とても大切なものだ。
それくらいのことは知っている。
「“それ”は君の感情だ。君のための感情だから……捨てたいときには、捨てていいんだからな」
フィンがそう言うと、クレイは首を振った。
「嫌です。この温かい気持ちは、ずっとわたくしのものです……旦那さま」
「………………」
フィンは、また後ろ頭をかいた。
さすがにここまでくると、照れくさい。
「さあ、早く帰ろう。体を拭いて、少し横になりたい」
「はいっ!」
「やっと元気な声が出たな」
そうしてまた、ふたりは歩き出した。
しっかりと手を繋いだまま、長く曲がりくねった道を――。




