第十話「女主人との和解」
レレパスが憲兵隊に連れていかれたあと、フィンはあてどもなく宿屋街を歩いていた。
ベイブも見当たらず、すっかり昼を回っている。
「ともかく、今日の宿を探さないと」
懐の小さな革袋が、悲しい小銭の音を立てている。
音すら鳴らなくなったら、いよいよ終わりだ。
「また救貧院に泊まるってわけにはいかないからな……」
「あそこ居心地良かったですよ! ご飯も美味しいですし! あそこをわたくしと旦那さまの巣にしましょう!」
「そういうわけにはいかないの」
もちろん救貧院で毎日を過ごしている者はいる。
けれどもそういう者たちは、もう働けなくなった老人などがほとんどだ。
フィンのような働き盛りの若い男が、何日も居座っていい場所ではない。
「となると、後払いで住まわせてくれる宿屋か……」
しかしそれも難しい話だ。
なにせ“盗っ人のフィン”の噂は、街中に広まっている。
後払いで宿代を払う、などという提案は、なかなか受け入れられないだろう。
「仕方ない、ともかく宿屋を1軒1軒回って頼み込むしかないか」
気づけばフィンたちは、昨日まで世話になっていた宿屋の近くまで来ていた。
フィンはなるべくそちらを見ないように、静かに宿屋の前を通り過ぎようとした、そのとき――。
「どこへ行こうってんだい!?」
「うおっ!」
振り向くと、そこに立っていたのは、巨大な岩石。
いや、巨岩と見まごうばかりに仕上がりきった筋肉の壁であった。
クレイの【ヒール】の副作用でマッチョ化した、あの宿屋の女主人、マーガレットである。
マーガレットはフィンたちの顔を見るなり、腹筋を6つに割りながらニカッと笑ってみせた。
「ゆうべは世話になったねえ!」
バゴァンと、骨が外れそうな勢いで肩を叩かれた。
「ごっふ!」
ひっくり返りそうになったフィンをよそに、マーガレットはクレイに目を向ける。
「そこの娘になにやらされてから、腰と膝の痛みが吹っ飛んじまってねえ! 50歳ほど若返った気分だよ!」
そう言ってマーガレットは、大木のような腕に力こぶを作って見せた。
よれよれだった仕事着も、今はパッツパツである。
肉体は完璧に仕上がっており、冗談抜きであと100年ぐらいは生きそうだ。
「お礼には及びませんよ!」
マーガレットは満面の笑みを浮かべるクレイの、銀色の髪をわしわしと撫でた。
「フィン、まったくアンタは良い嫁さんをもらったねえ!」
「いや、こいつはそういうのじゃ……」
「はい! 良い嫁です!」
そう言って、腕にきゅっと抱きついてくる。
確かにこうしていると、夫婦に見えなくもないのかもしれない。
そう考えると、フィンはなんだか照れくさい気持ちになる。
「そういやアンタ、今も宿に困ってんのかい?」
「はあ、お恥ずかしい限りで……」
フィンは後ろ頭を掻いた。
なにせクエストが受けられないのだ。
野宿することを、フィンは本気で考えはじめている。
するとマーガレットは、なにやら考え込むと、こんなことを尋ねてきた。
「あんた、大工仕事はできるかい?」
「多少のことでしたら……」
心得がないわけではない。
もちろん家を建てたりするとなると、話は別だが。
フィンが見上げると、マーガレットはニカッと笑った。
「だったらウチの宿に泊まりな」
そう言ってビシッと親指を立てる。
「気がついたら床やら壁やらあちこち穴だらけでねぇ。直してくれるってんなら、宿代はまけとくよ」
そう言いながら、マーガレットはボロボロになった自慢の宿をくいっと指さした。
おそらくマーガレットがバーサーカー状態だったときに、鋼のような筋肉の犠牲になったのだろう。
フィンが話をしている横で、クレイはさっき始まった大道芸にすっかり目を奪われていた。
「見てください旦那さま! ステッキから花束が! すごい! なんの役にも立ちませんけど!」
「おお、すごいすごい。ちょっと中を見てくるから、待ってな」
大道芸に夢中のクレイをおいて、フィンはマーガレットと宿屋に入っていった。
「こりゃひどい」
象のような足で踏み抜いたであろう廊下やら、鉄塊のような拳で破壊されたであろう壁の穴。
ちなみに粉砕されたドアの1枚はクレイのせいだ。
「どれくらいで直るかねえ?」
マーガレットの身長は、クレイの【ヒール】によって2メートルを超えている。
自分の宿屋を身を縮こめて歩きながら、マーガレットが尋ねた。
「1週間は見てもらわないと、ですかね。まず板材を揃えないと……」
そこでフィンは、申し訳なさそうにマーガレットを見上げた。
「どうしたんだい?」
「知っての通り、俺には悪い噂がついて回ってます。木材屋が板を売ってくれるかどうか……」
「そんなことかい! それくらい私が運ぶさね!」
マーガレットは、カボチャくらいなら粉々になりそうな勢いで、パァンと自分の上腕二頭筋を叩いた。
そうしてフィンに、ニカッと笑いかけた。
「あたしゃ、あんたの味方だよ」
思いがけない言葉に、フィンは目を見開く。
マーガレットは、フィンの肩を“そっと”叩いた。
「ロンゴやらレレパスとかいう連中のことは聞いたよ。憲兵に泣いて謝ったそうじゃないか」
ロンゴはともかく、レレパスにいたってはついさっきの出来事だ。
さすがは宿屋を経営しているだけあって、情報が早い。
鼻息荒く、マーガレットは言った。
「人の悪口広めて、自分が捕まっちゃ世話ないね! まったく!」
マーガレットは怒っているというよりは、どこか悲しげだった。
自分が噂を真に受けていたということが、こたえているのだろう。
「悪かったね、フィン。あんな奴らの言うことを真に受けちまって。謝って済むことじゃないかもしれないけどね、本当にすまなかったと思ってるよ」
フィンは、すぐには言葉を返すことができなかった。
つかの間の沈黙が流れ――フィンは、少しかすれた声で言った。
「……誤解が解けたなら、それだけで俺は嬉しいですよ」
これは、本心だった。
街を歩けば唾を吐かれ、パンを買えば睨まれる。
それがフィンの日常だった。
しかし今日、少なくともリーンベイルの街のひとりが、味方になったのだ。
「本当に……嬉しいですよ」
救貧院を出れば、どこへ行っても敵だらけのこの街。
フィンはそこにようやく、ひと息つける場所ができた気がした。
――そのときのフィンは。
クレイが連れ去られたことに、まったく気づいていなかった。




