1杯目 1-2
坂道の終りは二手に分かれていた。
手の込んだ木彫りの標識によると、右は一段下に作られた駐車場に繋がっているようだ。
少し覗くと、下り坂の先に空っぽの駐車場が見える。
まだこの時間はお客様がいないようだと分かりほっとした。
元の道に戻ると、目の前には広々とした敷地に洋風のおしゃれな建物が佇んでいた。
3階建ての1階は入ってすぐがカウンター、入口の少し横からはウッドデッキに2つのテーブルが用意されている。
ウッドデッキから見える店内の左端には木彫の階段。2階に目を向けると、左の芝に面したバルコニーが見えた。
晴れた10月の空気は気持ちよく、ぬくぬくした日差しと相まって最高だろう。
新しい職場の第一印象は、控えめに言って――――最高だ。
かすかに珈琲のすっとした香りが通り抜ける。
お上りさんよろしく店舗を見渡している間に、坂道の試練を乗り越えて上がっていた息も整った。
店舗の入り口からは、なかなか入ってこない無月を見かねてか、店長とその奥様らしき方が出てこようとしている。
急いで登ってきて良かったと思った。
遠目からも仲の睦まじさが分かるオーナー夫婦だ。第一印象が肝心。
足も心も軽く、2人に向かって歩き出した。
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「まぁまぁまぁまぁ!コウキさんどう?むーちゃんのメイド姿!」
喜色満面で私の制服姿にニコニコしているのは、マスターの奥さん、ミサキさんだ。
セミロングの銀髪を一本に束ね前に流していて、白地に濃紺のボタンが付いたコックコートとボタンと同色のエプロンが見事に調和している。
皺一つない透明感のある肌に、可愛らしさを基本とした各パーツが乗っている。
こう見えてコウキさんと2つしか違わないの。と爆弾を落とされた時は、初対面であることも雇い主であることも忘れて
「――――何言ってるかよくわからないです」
と返してしまった。
ミサキさんはちょっと驚いたあと、クスクス笑い出して、慌てて謝る私をコウキさんが宥めてくれた。
「良く似合っているよ。でも、さっきのエプロンにベレー帽の方が馴染んでいたかな」
そう言って助け舟を出してくれたコウキさんは、ミサキさんとお揃いの綺麗な銀髪を後ろに流してセットしていて、穏やかで優しい目にくっきりした顔立ちの紳士だ。年齢は60代だよとのこと。
ミサキさんと和んでいる時の姿は若々しく、とても壮年には見えないが、珈琲を淹れている時の真剣な佇まいはどっしりとしたオーラを感じて相応の年月を感じさせた。
目元の皺もいい味を出していて、青を深くした黒のシャツに黒のエプロンがとても似合っている。
今の私は遺憾ながらフリフリのメイド姿だ。
男性向きの制服と女性向きの制服を並べられて、即答で男性向きのエプロンにベレー帽を選んだのだが、1回着てみないとわからないじゃない?とミサキさんに押し切られて着ている。
正直今すぐ脱ぎたいくらい恥ずかしい。
えー、でも似合ってるよ?と可愛らしくむくれるミサキさんの破壊力は相当だが、ここはコウキさんの包容力でなんとか治めて欲しい。というか治めてください、なんとしても。
ミサキさんの年齢詐欺は置いておいて、おかしなことがある。
ミサキさんは左の二の腕に、コウキさんは右の二の腕に小さな宝石の付いた細いアームバングルをしていることだ。
アクセサリーを付けていることがおかしいのではない。
強く意識しないと認識できないのだ。
おかしなことは他にもある。
店の入口の反対にある2つの扉は、お客様の誰もそこに意識が向かず、あることすら気付いていない。
右の扉は、不思議な感覚はあるが不穏な感じはしない。
左の扉は、恐怖は無いものの開けてはダメだという確信がある。
「むーちゃんは感覚が鋭いのね......その内分かるから、今は着替えてしまいましょ?」
ミサキさんの声に、いつの間にか扉に意識が持っていかれていた私は我に返り、エプロンにベレー帽で治めてくれたコウキさんに感謝を捧げつつ、控室に駆け込んだ。
その扉から、私にとって初めてのお客様を迎えるのは少し後のことだった。